閑話オリビア編 母の腕の中で
夜の貧困街は、まず匂いで目が覚める。
湿った石畳の冷え、風に混じる干草と魚の古い匂い、遠くの鍛冶場の煤。
オリビアの世界は、そんな匂いに縁取られていた。
薄い毛布のざらついた繊維が頬に触れ、天井の木目に指を当てれば、指先がささくれに引っかかる。
そこで、あの声が降りてくる。
「おはよう、オリビア。今日は風がやさしいよ。」
母の声は、湯気の立つミルクに砂糖を一匙落としたみたいに、聞くだけで胸の奥が温かくなる。
母は髪を梳く。青みを帯びた銀の髪は、光を食むたびに淡く色を変える。櫛は古く、歯が二本欠けているのに、不思議と引っかからない。
母の手は、日々の労働で固くなっているが、触れるたび、身体から余分な緊張がふっと抜けていく。
「風はね、旅人なの。街の壁を越えて、遠くまで行って、見たことを話したがるのよ。」
「……風、しゃべるの?」
「オリビアが耳を澄ましたら、きっとね。」
朝は薄いパンと、塩と草の香りがする薄いスープ。パンを割る音は乾いているのに、母が笑うと、その音に色がつく。
夜は、母の膝で手作りで作られた見た目の絵本を読んでもらう。
「オリビアおいで?今日もオリビアの大好きな絵本を読んであげる。」
むかしむかし――
空は分厚い黒い雲でおおわれ、地上の人たちは「星」を知らなかった。
空を見上げても、そこにはただの暗闇だけ。
人々は「もう空は光らない」と信じていた。
ある夜、だれも気づかない森の奥で、
“ちいさな光のかけら”が生まれた。
その光はまだ小さくて、夜空を照らす力なんてなかった。
けれど、ひとりの子どもがその光を見つけて言った。
「きれい……夜が、こわくない。」
子どもがその光を広めると、
ひとり、またひとりと人々がその小さな光を囲むようになった。
その光はだんだん大きくなり、
まわりの“心の光”とつながって――夜空にのぼりはじめた。
黒い雲は言う。
「光なんていらない。お前がいなくても、みんなここで生きてきた。」
その光は震える。
けれど、下から声が届く。
「大丈夫、私たちが見てるよ。」
人々の声がその光を包み、雲を少しずつ押しのけていく。
その光は夜空いっぱいにひろがり、
やがて黒い雲を突き抜けて星になった。
人々はその光を“希望”と呼んだ。
それから、暗闇のなかで迷った人たちは、
その光を見上げて道を見つけるようになった。
星は、誰かが見上げるときに、そこに生まれるんだ。
オリビアはこの絵本が大好きで、母にこれを読んでもらうのがオリビアの子守唄。毛布の端を指で摘むのは、眠気の合図。母の胸に顔を埋めると、心臓の音が小鳥の羽ばたきみたいに整っていて、世界が「ここでいい。」と教えてくれた。
オリビアにとって、世界の輪郭は母の腕でできていた。
母の死と、姉の腕
その冬は、例年よりも早く雪が降った。音という音が雪に吸い込まれ、路地は白い息の音だけになった。
母の手は、いつもの朝よりも冷たかった。温めようと両手で包むと、すべすべした皮膚の下で血が遠のいていくのが、子どもにもわかった。
「……オリビア、ごめんね。だいすきだよ。」
呼吸の間隔が伸びていく。オリビアは胸に顔を押しつけ、声が擦り切れるほど叫んだ。
「いやだ、いやだ、いや……!」
声は天井板にぶつかって砕け、雪の音に混じって消えた。
外はいつのまにか雨が降り風がうねりを上げて吹いていた。
母のまぶたは薄絹のように閉じ、瞳はもうどこも映さない。指先をこすると、さっきまであった温度が、指の間からこぼれていくのがわかる。
世界から音が抜け落ち、膝の上に自分の鼓動だけが残った。
葬いの日。固い靴底が雪を踏む「ぎゅ、ぎゅ。」という音だけが行列をつないだ。
姉――アイリス・エルフォードは、痩せた指でオリビアの手を包み、震えを手首のところで止めるみたいにぎゅっと握った。
アイリスの手は硬いのに、握り方は驚くほど優しい。顔は泣き腫らして赤いのに、口角だけが強情に上がっている。
「リヴィ、大丈夫。私がいるから。……大丈夫。」
夜、暖炉のない家。毛布はひとつ。アイリスは自分の半分を押し出して、オリビアを引き寄せる。
「うちの暖炉はこれだね。」
かすれた冗談に、オリビアは声を出さずに笑った。
母の腕が世界の輪郭だったなら、姉の腕は“世界の続き”だった。
ラウニィーとの出会い ― 焚き火のぬくもり
市場の裏手、木箱が階段みたいに積まれた角。魚屋の桶の匂いと、焼き芋の甘い匂いが混ざる場所。
そこで、紅い髪の少女がリンゴをかじっていた。光を拾って、目の色が蜂蜜みたいにきらりと揺れる。
「ねえ、半分こする?」
少女はためらいなくリンゴを割って、オリビアの手に押しつけた。掌に乗るリンゴの温度が、彼女の体温を伝える。
「……ありがとう。」
「私はラウニィー。あなたは?」
「オリビア。」
「うん。オリビアって、風の音がするね。」
それが最初の会話だった。
ラウニィー・エルステイン――燃えるような紅い長い髪、金色の瞳。誰にでも笑いかける明るさと、人の気配の変化にすぐ気づく目の良さ。
火の魔法を使い、焚き火のように場をあたためる少女。
それから、ラウニィーはよく家に来た。
古い毛布に二人で潜り、足で取り合いになっては笑い、パンをちぎっては「こっちが大きいよ。」と押し合う。
オリビアの沈黙の日には、ラウニィーは焚き火のそばで手をかざすみたいに、ただ隣にいた。
「寒いのきらい。だから、私、いつも誰かを温めたいの。」
ラウニィーが自分を語る時は、いつだって真っ直ぐだった。
徴発、そして空洞
兵の靴音は、遠くからでもわかる。規則正しく、街の呼吸を変える。
その日、靴音は家の前で止まり、冷たい声がドアを通り抜けた。
「徴発だ。行軍は明朝。準備しろ。」
アイリスは一度だけオリビアを見た。怖い、悲しい、悔しい――全部を飲み込み、首を縦に振る。
荷物を詰める手は迷いなく、けれど最後の靴紐を結ぶ指だけが少し震えた。
「……行かないで。」
「帰ってくる。絶対。」
約束の言葉は、糸のように細かった。
数ヶ月後、戻ってきたのは木箱と紙切れだった。
蓋を開けることは許されず、名前だけが金具に刻まれている。
オリビアは何度も名前を撫でた。文字の縁で指先が薄く切れて、そこにじんわりと痛みが宿る。痛みだけが、夢ではないことを教える。
その夜、泣き声は声ではなかった。喉の奥が擦れて出る、擦過音に近い。
雨の音、風が強く吹く音が響いてくる。
ラウニィーは背中に手を置き、言葉を挟まなかった。
焚き火は炎を高くしない。近くで、長く、燃え続ける。
港外れの訓練場 ― 風が見ていた人
港の外れ、半壊した倉庫の裏に、誰が作ったのか木杭が並ぶスペースがある。
オリビアは昼は荷運び、夕方からそこで剣を振った。
ロープがほどけ、帆布が風を孕んで暴れ、子どもに絡みつく。
オリビアは走った。風の流れが帆布の縁に「抜け道」を作る瞬間を見切り、縁を裂いて風を逃した。
子どもが尻もちをつき、泣き声に安堵の音が混じる。そこで、背後から靴音が一つ。
「偶然じゃないな。」
深紅の外套。白の詰襟。灰色がかった瞳。
アルノー・グレイヴス。王国元帥。陸戦の英雄。風の達人。
最上位の軍人は、公の理由なしには現場に現れない。けれど戦況は悪化し、彼は“街”そのものを見に来ていた。
「名は。」
「……オリビア・エルフォード。」
「風の動きを“見る目”だ。逃がす場所と、止める場所がわかっている。誰に習った?」
「誰にも。……見えただけです。」
「見えるだけで、それができる者は少ない。」
元帥には特例の裁量がある。彼は封のない紙片を差し出した。
「士官学校の即応課程だ。行くかどうかは、お前が決めろ。」
扉は開けるが、押しはしない――そういう言い方だった。
その夜、ラウニィーがパンとスープを持ってきて、一緒に床に座って食べた。
「どうする?」
「行く。……ここで止まってたら、何も変えられない。」
「うん。じゃあ、私も行く。私のやり方で。」
後日、掲示に並んだ二つの名前。オリビアは元帥の特例入学、ラウニィーは地方推薦。
「同じ場所で、同じ空、見ようね。」
ラウニィーの金の瞳が、灯りに溶けた。
士官学校 ― 疎外と体系(首席への道)
士官学校の門をくぐった瞬間、空気が変わる。
磨かれた石畳、整列した槍、規律の匂い。
視線は冷たく、囁かれる声は蔑むようだった。
「元帥の口利きだ。」「貧困街出身が首席候補?」
ラウニィーは構わないという顔で横に立った。
「気にしないの。私たちはやることをやるだけ。」
授業は徹底していた。
戦術基礎では地形図に糸を渡し、死角と射線を“見える化”する。
元素対策ラボでは、干渉角度と臨界圧を測り、魔力の“硬さ”を手で覚える。
隊列運用では、楔・箱・段の布陣で、退路と合流点の設計を繰り返す。
戦闘実技は対人訓練から審査試合へ。
野外演習は傷病者搬送と夜間視界の管理が肝だ。
だが、誰も彼女に手を差し伸べなかった。
貧困街出身の少女に仲間をつける者は少なく、演習では孤立が続いた。
だからこそ、彼女は夜に訓練場に残り、地面に棒を突き刺して風の流れを記録し、足運びを何百回も繰り返し、魔力の制御を骨に刻み込んだ。
指の皮は裂け、靴底は磨り減り、魔力を使いすぎて倒れる夜もあった。
年に一度の実技戦闘審査。
オリビアは少数精鋭を率い、地形と風向を徹底的に利用した奇襲と退路設計で、貴族出身の候補生たちを次々と撃破した。
“個の技”ではなく、“戦場の設計”で勝ち続けたその戦いは、審査官たちの評価を覆した。
「オリビア・エルフォード。首席合格。」
その名が掲示板に刻まれた瞬間、誰も彼女を嘲笑わなくなった。
彼女は士官学校史上初の「貧困街出身の首席」だった。
授業では、この頃すでに過去の伝説的首席、ヴィンス・アーデンの名が頻繁に出ていた。
オリビアにとって、それは“遠い先の基準”であり、追い越すべき象徴になった。
卒業式 ― 元帥との模擬戦(伝統)
卒業式は、白い礼装と金の房、整列した軍旗、真新しい金具の匂いで満ちる。
伝統――首席と元帥の模擬戦。
砂が均された訓練場の中央に、二人だけの影が落ちる。周囲には千を超える候補生、士官、上官。
対峙するのは、アルノー・グレイヴス。
「準備はいいか。」
「はい。」
合図は風だった。
オリビアは風を纏う。足首からふくらはぎ、腰へと順に力を積み上げ、剣に流し込む。
アルノーは動かない。ほんのわずかに重心を落としただけで、風圧が背後に“逃げ道”をつくる。
初太刀。喉元をかすめる軌道を、アルノーの手の甲が角度で逸らす。
接触の瞬間、風が柔らかく撓む感覚――硬い盾ではなく“受け流す手”。
二合、三合。
オリビアは剣を切り返しながら、風の段差を斜めに配置して踏み替える。視界の端で砂がさざめく。
アルノーはその段差を、まるで最初から知っていたかのように、足裏で踏んで消す。
空気の厚みが変わる。圧が一瞬だけ増す。“ここ”が危険だと、身体が先に知る圧。
アルノーの掌が軽く前に出る。うねる風。剣が手から抜けるように弾かれ、視界が白く反転する。背中が砂に触れ、熱が皮膚に移る。
静寂。
やがて、拍手が波のように広がり、止む。
アルノーは歩み寄り、手を差し出す。手の皮は硬く、温い。
「ここまでよく来た。……誇れ、オリビア。」
「ありがとうございます……っ。」
「いずれ、私を超えろ。お前ならできる。」
短い言葉は、重く落ちた。祝辞や形式を超えた、個に向けられた承認。
この日、オリビアは“未来に対する責任”を、言葉として受け取った。
前線の季節
卒業と同時に、オリビアは辺境方面軍へ配属された。
任地は乾いた風が鳴る台地と、低い丘が幾重にも重なる国境線。
日々の任務は地味だ。偵察、補給路の維持、村落の避難誘導、夜間の巡邏。
それでも、風の読みは役に立った。
砂塵の立ち方で敵の規模を測り、焚き火の煙の形で陣地の配置を推定する。
小競り合いのたび、彼女は退路と合流点を“同時に”引き直し、仲間の損耗を最小化した。
その設計の確かさは、やがて上官たちの目に留まり、小隊の指揮、臨時の任務指揮が増えていく。
夜、手の甲に残るロープの痕をなぞりながら、彼女は何度も卒業式の言葉を思い出した――「いずれ、私を超えろ。」
遠い灯のように、その言葉は胸の底で静かに燃え続けていた。
空が唸った日 ― 陸の終焉
その朝、風はいつもと違う音を連れてきた。
低く、腹の底に重石を置くような響き。風の音に似ているのに、風ではない。金属が空を擦る、聞いたことのない唸りだった。
最前線の稜線に出た瞬間、オリビアは息を呑む。
黒鉄の巨影が、雲の下を滑るように進んでいた。
艦――海でしか聞いたことのない言葉が、空を支配している。
装甲は煤けた黒。腹に並ぶ砲門は、巨大な眼孔みたいに無表情だ。
尾翼に刻まれた帝国紋章が太陽を遮り、地上に長い影を落とす。影の中では、兵の動きが一拍遅れる。
「……なんだ、あれは。」
誰かの声が、喉の奥で乾いた。
最初の一撃は、音より先に空気で来た。
圧が膨らみ、世界が一瞬、吸い込まれる。
次いで雷鳴のような爆音。
前衛陣地の土嚢が束ごと跳ね、杭が抜け、砂と石と肉が空に舞い上がる。
耳が痛い。胸骨が内側から叩かれる。肺が一瞬、呼吸を忘れる。
「散開! 遮蔽へ!」
オリビアの声が先に走り、身体が後からついてくる。
矢は届かない。投槍も炎の魔法も、空の広さに拡散して力を失う。
陸で築いた布陣が、空からの一撃で意味を失う――それを理解するのに、言葉は要らなかった。
第二波。砲口の内側が白く光る。
オリビアは風の層を厚くし、近傍の兵を押し倒すようにして地面に伏せさせる。
熱風が走り抜け、髪が焼ける匂いがした。
視界の端で、塹壕の縁が崩れ、木杭が人の背に突き刺さる。叫び声が砂に吸われる。
「――元帥を! 元帥の出動要請!」
伝令の叫びが掻き消える前に、深紅の外套が視界に差し込んだ。
アルノー・グレイヴス。
外套を脱ぎ捨てる。白い詰襟の胸元には古い血痕が薄く残り、剣の鍔は手の跡で黒ずんでいる。
その背中は、何十度もの撤退路を“押して”守ってきた男の背中だった。
「前線、統制を戻せ。」
低い声が、轟音の底で芯のように通る。
アルノーは風を敷きながら、歩くというより滑るように稜線を降りた。
空からの圧に対抗するように、地表に逆巻く流れを走らせ、砲煙の向きを僅かに逸らす。
その一呼吸で、爆圧が半身ほど流され、倒れずに済む兵が生まれる。
オリビアは走り寄り、声を張る。
「元帥! 一人での突入は――」
「オリビア。」
名を呼ばれた瞬間、戦場の喧噪が一段、下がる。
「お前は生かせ。目だ。耳だ。……風だ。」
第三波。砲門がこちらを向く。
狙いが、はっきりとわかる。
オリビアの脚が一瞬、地面に縫い付けられたみたいに重くなる。
その刹那――アルノーが前に出た。
風が壁になる。
ただし、それは決して完全な盾ではない。
衝撃が重なれば、風は撓み、受けるものの身体へと伝わってしまう。
閃光。爆音。世界が白く弾け飛ぶ。
熱と衝撃が皮膚を裂き、砂が頬に叩きつけられる。
オリビアの視界に、深紅の布が舞った。外套だ。
次に見えたのは、血。
赤が砂に吸い込まれ、土の色が一瞬で変わる。
近づく。膝が泥に沈む。
アルノーの胸の白が、赤に塗り潰されていた。
片腕が鈍く折れ、呼吸のたびに喉の奥で泡立つ音がする。
彼はなおも立とうとしていた。剣を支えに。だが膝が落ちる。
「……いや、いやだ……!」
喉が裂ける。言葉は名前にならない。
手を伸ばす。血で滑る。
アルノーは、その手首を掴んだ。驚くほど強い力で。
「見ろ、オリビア。」
短い言葉。
彼は視線で空を示す。
黒鉄の腹、無表情な砲門、上から降る絶対の優位。
「陸は、ここで終わる。」
目が笑う。悔しさでも諦めでもない、次を見通した者の笑いだ。
「次は……空だ。お前は――行け。」
その瞬間、遠雷のような響きとともに、船腹が再び明滅した。
アルノーの肩が弾かれ、身体が前に倒れる。
手首にかかる力がふっと抜け、温度が指の隙間から逃げていく。
「……っ……!」
声にならない否が、肺の奥で暴れる。
周りの音が遠ざかる。砲声も、叫びも、土砂の崩れる音も――全部、水の底の音になる。
耳に残るのは、さっきまでこの手を握っていた鼓動の名残だけ。
空は、構わず唸り続ける。
影が伸び、地表の陣形を塗りつぶす。
その光景を見て、オリビアははっきり理解した。
――ここで、“陸の時代”は終わった。
戦いは、空に奪われた。
砂の匂いの中、オリビアはゆっくり立ち上がる。
涙で歪む視界の奥に、黒い艦腹がぬらりと滑る。
喉は焼けて声が出ない。
それでも、胸の底で言葉が形になる。
奪い返す。
彼女は最初の一歩を踏む。
風が足首に絡み、砂を巻き上げ、背を押す。
焚き火の温度――ラウニィーの声が遠くで言う。「私、いるからね。」
退路と合流点を同時に引きながら、彼女は生存者を集め、砲撃の間隙に隊列をずらし、次の遮蔽線まで風で押し運ぶ。
アルノーが作ってくれた一拍の余白。その一拍で、救われる命がある。
それが、遺された者の戦い方だ。
やがて、黒鉄の艦は高度を上げ、影を引き剥がすように去っていく。
音が遅れて戻る。風の音、負傷兵のうめき、布を裂く音、祈り。
砂に膝をついたままの遺体に、オリビアは額をそっと触れさせた。
熱は、ほとんど残っていない。
それでも、掌には確かに――重さがあった。
「……見ていてください。必ず。」
空は、答えない。
だからこそ、誓いは強くなる。
この日以降、王国の戦場地図から多くの“丘”の記号が意味を失い、代わりに“高度”の数字が書き込まれるようになった。
弓兵の射程表は破り捨てられ、魔導管の角度表が配られた。
そして、オリビア・エルフォードの胸には、ひとつの空白と、ひとつの矢印が刻まれた。
空白は喪失。矢印は方向――空。
陸の終焉と、空の時代の幕開け。
その境界線のど真ん中に、オリビアは立っていた。
黒鉄の艦影が空を滑り、アルノーの死とともに陸の時代は終わり、空の時代が始まる――
この日を境に、オリビア・エルフォードは“空を奪い返す”誓いを胸に刻むことになる。
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