第2話 スバル

「ごめんやに。びっくりさせたやろ。あんなピーピー笛鳴らされるとは思わんかったわ」

「……いや、いい、ですけど。それより凄いすね。100mくらい息止めたままだったし」

「あのくらい簡単やに。その気ならもっといけるわ」


 1度飛び込み台まで戻った明日人に水の中から話しかけてきたスバル。第一印象は、妙に馴れ馴れしい人だった。

 聞いてもいないのに、「うちはスバルや。よろしくに」と名乗るし、つられて「明日人、です」と返事をしたらいい気になって「明日人くんかぁ。面白い名前やに。なぁなぁ、高校生? ぴちぴちしとるもんなぁ。あ、うちは大学1年やに」とか「明日人くんは部活? あ、自主練やろ! えらいなぁ」と、とにかく口が止まらないのだ。


 しかし、案外と気も回るようで「あ、邪魔してもうたわ」と1歩引く気遣いも見せる。確かに馴れ馴れしいが、嫌な気はしなかった。

 それでついつい相手をしてしまうのだ。


「スバルさんも、自主練すか」

「うぅん、遊んどるだけやに。大学は近くなんやけど地元は三重なんよ。琵琶湖行こかなぁ思ったんやけど、よぉ考えたらまだ遊泳解禁じゃないけん泳いだらダメやろ? それでどないしよかなぁ~てふらふら走とったらここを見つけたんよ」


「ラッキーやったわぁ」スバルは心底幸運を噛み締めてカラカラと笑った。余程泳げることが楽しいのだろう。明日人はちゃんと調べればいいのにとも思ったが口にするのはやめにした。


「あ、えぇこと思いついたわ」プールから上がったスバルはなにか閃いたらしい。


「明日人くん、競争しようや、競争。あっちいって帰ってきてうちより速かったらジュース奢ったげるわ」

「いいですけど、俺そこそこ速いすよ」

「うちも地元じゃ負け知らずやに~。あ、明日人くん何泳ぎが得意? 合わせるで。うちは何でもいけるやに。なんなら犬かきでもええよぉ」

「じゃあ、バタフライで」

「えぇ! いっとう難しいやつやん。明日人くんやるなぁ」


 そんなわけで、急遽ジュースをかけた100mバタフライ1本勝負。

 スバルは腕をぐるんぐるんと何度も回しながら「こうやったかな? こう?」とバタフライの泳ぎ方を確かめていた。

 明日人は内心、勝ちを確信したが顔には出さず飛び込み台に上がるとフッと鋭く息を吐き、肩を軽く揺すった。

 明日人なりのルーティンは本気を出すという意思表示だ。

 勝負事には真面目な気質だし、なけなしの小遣いも掛かっている。


「んじゃ、ヨーイドンでいくで」

「いつでもいいすよ」

「じゃ~、ヨーイ、ドン!」


 同時に踏み切り、指先から水面に触れる。

 完全に水中に身を納め飛び込みの勢いを落とさぬように、揃えた足をヒレのようにしならせて再び水面へ。

 大きく両腕を同時に回し、捕らえた水を後方に押し込み身体を前へと送り出す。さらに足を使い前へ前へ。

 ダイナミックな動きとは裏腹に、腕と足を稼働させるタイミングがズレると途端に推進力が殺されてしまう。


 水泳慣れした者でも難しいと言われるのがバタフライという泳法だ。

 明日人は小学4年生からずっとバタフライ1本で練習を重ねてきた。

 最近揺らぎかけてはいるが自信があった。

 その自信が吹き飛んだ。


 横並びだったのは、飛び込んですぐ後だけだった。

 まるで超常現象のようですらあった。

 激しく飛沫のあがるバタフライは泳いでいる真っ最中にあまり周りのことはわからないが、みるみると隣のレーンの飛沫が先行していくのだ。

 こんな引き離され方はかつて経験がない。

 50mの折り返し手前、レーンの色が変わるより先に伸びやかにターンを決めるスバルに大型の回遊魚とすれ違ったような錯覚すら覚える。逆転の目はまるでなかった。


 正確なタイムはわからなかったがスバルに10秒程遅れて100mを泳ぎきれば「ウチの勝ちや!」と満面の笑みで迎えられた。

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