第3話



 カランッと音を立てて床に空になったグラスが落ちた。



「ロゼント子爵殿、ロゼント子爵殿」



 俺の前のソファに座っているロゼント子爵に声をかけるがロゼント子爵は深くソファに背中を預けて眠り込んでいる。



「薬が効いたようだな。この分ならパーティーが終わるまでは目を覚まさないだろう」



 床に落ちたグラスを拾い俺はテーブルの上に置く。

 休憩室の小部屋にロゼント子爵を連れ込み、ワインの話をする前に俺は隙を見て部屋に用意されていた飲み物に睡眠作用の薬を盛ったのだ。


 何も知らないロゼント子爵はその即効性のある薬入りの飲み物を飲んで眠りの世界へと入ってしまった。

 この薬はこの国では許可を持つ医師しか取り扱いが認められていない薬なので普通の者が手に入る代物ではない。


 だが俺はこの国の宰相補佐官であり王城で必要な物の購入品などを確認する立場の人間。

 本来は宮廷医師が取り扱う薬の一部を少々自分の懐に入れても分からない。



「さて、ミランダ夫人の所に戻るか」



 休憩室の小部屋を出て俺は休憩室の管理をしている使用人に声をかける。



「悪いけど、この部屋でお酒に酔った人物が酔い覚ましに少し寝ているから他の者を近付けないでね」


「承知しました」



 これでロゼント子爵に邪魔されずにミランダ夫人を口説ける時間を確保できた。

 俺は急いでパーティー会場に戻る。


 パーティー会場はアドルフも登場して一段と盛り上がっていた。

 アドルフの方をチラリと見るとアドルフも俺の視線に気づいたようで一瞬だけ俺と視線が交わる。


 その視線は「賭けはうまくいってるか」と問いかけるような視線だった。

 だが俺は視線をすぐに外してミランダ夫人を探す。


 アドルフとの賭けは今夜ミランダ夫人を堕とせなかったら俺の負けになる。

 そして俺はミランダ夫人を見つけた。


 ミランダ夫人は酔い覚ましのためかパーティー会場から出たバルコニーにいる。

 俺は一呼吸してからバルコニーに出て夜空を眺めるようにして立っていたミランダ夫人に声をかけた。



「ミランダ子爵夫人。このような場所で何をされているのですか?」


「え?」



 声をかけられたミランダ夫人は驚いたように振り返る。

 そしてその瞳を大きく見開いた。



「こ、これは、バールデン伯爵様。あ、あの、夫と一緒に休憩室に行ったのでは?」


「ええ、ですがロゼント子爵とのお話は既に終わりました」


「え? では夫はどこに……」


「お話の時に飲まれたお酒が子爵には少し強かったようで今は休憩室でお休み中です。なので自分のことは心配せぬようにと子爵殿がミランダ夫人に伝えて欲しいと私に頼まれましてね」


「まあ! そんなことを夫が! 夫はけしてバールデン伯爵様を小間使いのように扱ったわけではないと思います。どうかご容赦ください!」



 ミランダ夫人は俺に頭を下げる。

 確かに子爵より身分が高い俺を子爵が小間使いなどに使ったら本来なら何らかの処罰を受けても文句は言えない。


 ましてや俺はただの伯爵というわけではない。

 顔を知らなくてもこの国で俺の名前を知らない奴はいないだろう。


 俺の機嫌を損ねて自分の夫に処罰が下ることを恐れるミランダ夫人の気持ちは理解できる。

 それならそのミランダ夫人の気持ちを利用するまで。



「いえ、私はそれぐらいで短気を起こす人間ではありません。でも、もし私に悪いというなら私の望みを叶えてくれませんか? ミランダ夫人」


「え?」



 頭を上げたミランダ夫人に近付き瞳を覗き込むように見つめる。

 ミランダ夫人は身体が硬直したようにその場から動けないようだ。


 ジッと俺の瞳を見つめるミランダ夫人の顔が赤くなっているのが分かる。

 俺は視線を外さないままミランダ夫人の手袋をしている片手を取った。



「どうかあなたの僅かな今宵の時間だけ私にいただけませんか?」


「わ、私の時間…ですか?」


「ええ。この王宮にある中庭はとても綺麗なんです。そこの階段から中庭に降りられるので私と中庭を散歩しませんか?」


「な、中庭の散歩ですか…」



 ミランダ夫人は狼狽えたように一歩後ろに下がる。

 逆に俺は一歩ミランダ夫人に近付いた。


 バルコニーの柵があってそれ以上ミランダ夫人は後ろに下がれない。

 俺は獲物をじわじわと追い詰める。



「それとも私では信頼できませんか? そうですよね、今宵出逢ったばかりの私を信頼するなんて無理ですよね」



 不意にわざと視線を外して俺は悲し気な表情を作る。

 すると明らかにミランダ夫人は動揺した様子で慌てて俺に声をかけてきた。



「い、いえ! そ、そんなことは…バールデン伯爵様は素晴らしい方だとお噂は聞いています…そ、そんな方を信頼しないなんて…」



 ミランダ夫人の片手を持ち上げて俺は手袋越しにミランダ夫人の手の甲にキスをする。

 俺の唇が触れた時にミランダ夫人の手が僅かにビクンと震えた。



「そう言っていただけると嬉しいです。私のことはエミリオと呼んでください。ミランダ♡」


「っ!」



 甘く囁くような声で俺はミランダの名前を呼び捨てにした。

 ビクッと身体を震わせたミランダは熱でもあるかのような火照った顔をしている。



「ミランダ。中庭を一緒に散歩していただけますか? 大丈夫。散策が終わったら子爵殿の所に送ってあげますから」


「……は、はい……エ、エミリオ様……」



 消え入りそうな小さな声でミランダ夫人が返事をした。



 まずは第一段階成功だな。



 女とヤルためにはいかにして人気のない場所に誘い出せるかで勝負の半分は決まる。

 俺はミランダ夫人の腰に手を回して中庭へと降りる階段に誘導した。



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