無意識の悪意(莉子 視点)
空虚を満たすもの
莉子の心の声
「ルームメイト」―誰かが紘汰との関係をそう表現したとき、私は笑えなかった。
だって、それが真実だから。結婚当初の私たちは、互いの仕事が終わるのを心待ちにし、少しでも時間ができると、どちらからともなく手を繋いでいた。
今の私たちはどうだろう? 彼が帰宅しても、彼は仕事の続きか疲労でソファに沈む。私も私のPCに向かう。
会話といえば、「ご飯できたよ」「お風呂入るね」といった連絡事項だけ…
私は紘汰を愛している。
彼が自分の目標に向かって懸命に努力している姿を尊敬している。彼の頑張りは、きっと私たちのためだ。
頭ではわかっている。
だが、私の心臓は、もう長い間、彼に対して温かい脈を打っていない。
私は、愛されたいのではない。見つめられたいのだ。一人の女性として、神崎紘汰の妻としてではなく、「莉子」として、彼にとって何よりも優先される存在でありたい。
しかし、彼の世界で一番優先されるのは、常にクライアントとプロジェクトの進捗なのだ。
日曜日の食卓と消えた熱
日曜日の朝9時
キッチンに立つ私の手元には、もう
「愛する夫のために」という熱意はなかった。
あるのは「妻としての義務」だけだ。
丁寧に淹れるコーヒーの香りは、かつて私たちを優しく包んだが、今やただの香りだ。
紘汰がPCを立ち上げ、ヘッドセットを装着したとき、私の心は凍りついた。
昨夜、楽しみにしていた映画の続きの話をしようと、何度も頭の中でシミュレーションしていたのに。
「ごめん、急に海外支社とのブリッジ会議が…」
彼の謝罪は、もう聞き慣れた定型文だった。
本当に大切に思うなら、この瞬間に「ごめん、5分だけ待ってくれるか? すぐに朝食を済ませたい」と言ってくれるはずだ。
彼の謝罪には、「仕事>君」という優先順位が隠されていた。
「もう、いいから」
私が吐き出した言葉は、諦めと、もうこれ以上、彼に期待して傷つきたくないという自己防衛だった。
彼は「わかった」とだけ言い、すぐに画面の中の世界へと消えた。彼の側で鳴り響く、聞き慣れない英語と専門用語の羅列が、私と彼の間に見えない、厚い壁を築いていく。
午前中
私はリビングから姿を消した。
彼の視界に入らないように、自室で黙々とデザインの作業を進めた。
彼の会議が終わった頃
静かに残りの家事を片付け、作り置きの料理をタッパーに詰める。
このタッパーの蓋を閉める
「パチン」という音が、
私の心の中のシャッターが下りる音のように感じられた。
紘汰は昼過ぎに目を覚まし、ソファで寝ていた。
その安らかな寝顔を見て、私はふと、この人は私がいなくても、いや、
>私の存在を意識しなくても<、
幸せなんだろうな、と思ってしまった。
満たされない女性の飢餓感
紘汰の視点では「家族のため」の頑張りかもしれないが、私にとって彼の多忙は、「私という存在の否定」に他ならなかった。
私は30歳を目前にした一人の女性だ。
Webデザイナーという仕事にはやりがいを感じているが、それだけでは満たされない感情がある。
それは、「必要とされている感覚」だ。
最近、鏡を見るたびに、自分の顔に覇気がないことに気づく
おしゃれをする気力も失せ、どうせ紘汰は私を見ても「お疲れ」としか言わないだろう、と思ってしまう。
彼の視線は、疲労と、次にやるべき仕事で曇っている。
彼は私の髪型が変わったことにも、新しい服を着ていることにも、気づかない。
ある夜
私は勇気を出して、ベッドの中で紘汰の背中に抱きついた。
「ねぇ、抱きしめて」
彼は疲れた声で、
「ごめん、莉子。今日は本当に疲れてて…」と、
私の手を優しく、しかし明確に、自分の身体から引き剥がした。
その瞬間、
私の心に、どす黒い感情が湧き上がった。
ああ、この人は私を女として見ていない。ただの家族の一員、家の管理者としてしか見ていない。
この拒絶は、私が一番恐れていた現実だった。
私の女性としての魅力が失われたのか、それとも彼が私に飽きたのか。
この不安が、私の中でドロドロとした葛藤を産み出した。
「誰か、私を必要としてくれる人、私を一番に見てくれる人はいないのか?」
この飢餓感が、私を幼馴染の悠人へと向かわせた。
幼馴染という名の心の麻薬
悠人は、紘汰とは対極にいる人間だ。
彼は大手企業のエリートではない。地元の設計事務所で、地道に仕事をしている。
彼の年収は紘汰に遠く及ばないだろう。
しかし、彼には「心の余裕」があった。
カフェで会うとき、悠人は必ず、私の目を見て話す。
私が仕事の愚痴を言えば、紘汰のように「まあ、頑張れよ」と抽象的な励ましをするのではなく、
「そのクライアントの要望は理不尽だな。莉子のデザインの良さをわかってない」と、
>私個人の頑張りを肯定<してくれる。
初めて、紘汰の相談を悠人にした夜。彼は私が話し終わるのを待ち、静かに言った。
「紘汰も頑張ってるんだろう。でもさ、莉子の頑張りも、俺は知ってるよ。お前が無理して笑ってるの、俺にはわかるから。いつでも話を聞くからさ」
彼は、私を責めない。
紘汰を責めない。ただ、私という存在を肯定し、受け入れてくれる。
彼の存在は、紘汰との生活で失われた私の自己肯定感を、少しずつ、しかし確実に満たしていった。まるで、心の空腹を満たす麻薬のように。
悠人と会う回数が増えるたびに、私の罪悪感は増した。
しかし、同時に、紘汰といるときよりも、私は「私」でいられる気がした。
彼の前では、私は無理に「理想の妻」を演じる必要がない。
泣きたいときに泣き、怒りたいときに怒る。彼はそれを静かに受け止めてくれる。
ある火曜日の夜
紘汰は「どうしても終わらない」
と深夜帰宅のメッセージを入れてきた。
その夜、私は悠人と深夜の公園で、缶コーヒーを飲んでいた。
冷え込む夜空の下、私は紘汰への不満と、自分自身の孤独を語り続けた。
そして、
私が涙を流し、嗚咽で言葉にならなくなったとき、悠人がそっと、私の肩を抱き寄せた。
彼の腕の温もりは、紘汰の冷たい背中とはあまりにも違っていた。
ああ、この温もりを、私はどれだけ求めていたのだろう。
私たちの間の境界線は、
その夜、
静かに、そして決定的に、崩壊した。
帰宅した私を待っていたのは、静かに眠る紘汰の姿だった。
彼の寝息を聞きながら、私は自室のベッドで、罪悪感と、久しぶりに感じた満たされた感覚に苛まれた。
「昨夜はありがとう。無理しないでね。」
翌朝
悠人からのメッセージに、私はすぐに既読をつけた。
この秘密の共有が、私の心を完全に二つに引き裂くことになると知りながら。
私はこの心の麻薬を、もう手放せないかもしれないという、ドロドロとした不安に襲われていた。
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