無意識の悪意(紘汰 視点)

 ルームメイトとしての愛

 紘汰の心の声

29歳。人生で最も脂が乗っている時期。

そう思っていた。大手IT企業のマネージャーという肩書きは、学生時代の俺が夢見た未来そのものだ。

忙しい? もちろん忙しい。

連日連夜のミーティング、新規プロジェクトの責任、部下の育成。体力の限界を感じる日もある。でも、

この重圧こそが、俺が「社会に必要とされている証」だった。

そして何よりも、この奮闘の先には、愛する莉子との盤石な未来があるはずだった。

莉子との結婚生活は、完璧だと信じていた。

 お互いを尊重し合い、喧嘩はほとんどしない。彼女はフリーランスのWebデザイナーとして家で仕事をしているから、家事もこなしてくれる。俺は外で稼ぎ、彼女は家を守る。古典的かもしれないが、俺たちなりの理想の形だと思っていた。 しかし、最近の莉子との会話は、どうにも噛み合わない。



日曜日の食卓とヘッドセット

日曜日の朝9時


 リビングには、莉子が丁寧に淹れてくれたコーヒーと、俺が好きな厚切りトースト、そして彩り豊かなサラダが並んでいる。

 窓から差し込む冬の光は暖かく、本来なら一週間分の疲れを癒し、莉子とゆっくり語り合うべき時間だ。


「いただきます」


と言うべき唇から出たのは、


「あ、もしもし。はい、神崎です」


というビジネスの声だった。


 莉子が眉をひそめたのが見えた。彼女は静かにトーストを皿に乗せ、ため息にも似た息をそっと吐き出した。


「ごめん、急に海外支社とのブリッジ会議が入っちゃって。すぐに終わらせるから」


 そう言って、俺はノイズキャンセリングのヘッドセットを装着し、PCの前に向き直った。


会議の内容は、来期の予算再編成について。重要度が高い。この会議を制すれば、俺の評価は確実にもう一段上がる。


会議が始まると、俺の意識は完全に画面の中、遥か遠い異国のオフィスに移った。


データ、資料、議論。莉子が何度もこちらをチラ見しているのは感じていたが、今は集中しなければならない。これは「戦い」だ。


会議が終了したのは、時計の針が12時を過ぎた頃だった。


ヘッドセットを外すと、部屋はひんやりとしていた。テーブルの上には、俺のトーストだけがラップをかけられて放置されている。莉子の皿は、きれいに片付けられていた。


「莉子、ごめん。長引いた」


キッチンから顔を出した莉子は、少し目が赤いように見えた。


「大丈夫。紘汰、お疲れ様。お昼はもう食べたから、自分で温めてね」


彼女の言葉には、怒りや非難は含まれていなかった。ただ、感情の欠落した、事務的な響きだけがあった。


「ねぇ、昨日の映画の話、いつする?」


昨夜


 二人で観たフランス映画について。恋愛ものの名作だと莉子が選んだものだ。


観ている最中は、俺も手を握り、楽しかった。その続きの会話を楽しみにしていたのは、俺も同じだった。


「ああ、ごめん。今日これから、どうしても終わらせなきゃいけない資料があるんだ。来週月曜に提出で、これは誰も代わってくれない。だから、終わったら…」


莉子は俺の言葉を遮った。


「わかった。無理しなくていいよ。もう、いいから」


 彼女はそう言うと、持っていたタッパーの蓋を「パチン」と強く閉め、冷蔵庫に入れた。


その音は、まるで俺たちの間に張られた細い糸が切れる音のように、俺の耳に響いた。


俺は疲れていた。


ソファに身を沈めると、すぐに眠りに落ちた。


目が覚めたとき、部屋は夕焼けに染まっていた。


 莉子は別室で、クライアントとのオンラインミーティング中らしかった。


ヘッドセットをつけた彼女の横顔は、俺と同じくらい真剣で、どこか遠い場所を見つめているように見えた。


「家族のため」という自己欺瞞

俺は、自分自身の「忙しさ」を、愛する莉子と俺たちの「未来のため」だと正当化していた。


「家族のため」


 この言葉は、魔法の盾だった。この盾があれば、莉子との会話を中断しても、デートの約束を破っても、平気でいられた。俺は彼女に、何度も伝えていた。


「このプロジェクトが成功すれば、俺たちの生活はもっと豊かになる。来年こそは、ハワイに連れて行ってやるから。だから、今は少しだけ我慢してくれ」


莉子はいつも、「わかってるよ、紘汰。あなたの頑張りは一番知ってる」と言ってくれた。


その言葉を、俺は「理解と承認」だと受け取っていた。


だが、今思えば、


それは「諦念と受容」の言葉だったのかもしれない。


最近、仕事から帰宅すると、莉子はもうリビングにいなくて、自室でデザイン作業をしていることが多い。


「ただいま」


「おかえり。ご飯はレンジの中だよ」


 まるで、家に住んでいるのは俺一人で、彼女は「家事代行サービス」のスタッフのように感じることが増えた。


俺は寂しさを感じたが、それを口にすることはなかった。


なぜなら、その寂しさを生み出しているのは、他でもない俺自身だからだ。


寂しいと言えば、彼女を責めているように聞こえる気がした。


 俺は、自分の頑張りに対する「ねぎらい」を求めていた。疲弊しきった俺を、彼女が温かい言葉で包んでくれることを期待していた。


しかし、莉子の態度は冷淡ではないが、熱意がなかった。


「今日、新規プロジェクトのプレゼン、大成功だったんだ。これで昇進も確実だ」


俺が誇らしげに話しても、莉子はPC画面から目を離さず、


「すごいね。おめでとう」とだけ返す。


それは、俺が望んでいた反応ではなかった。


俺は、彼女の瞳の中で、


「世界を股にかけるスーパービジネスマン」


として映っていたいのだ。


でも、彼女の瞳には、ただの


「家に住んでいるルームメイト」


しか映っていないように感じた。


俺の「無意識の悪意」とは、


「俺がやっていることは、全て君のためだから、君は俺の望む形で応えるべきだ」


という傲慢な期待だったのかもしれない。


異変の兆候と「自分のせい」という逃避

水曜日の夜、久しぶりに二人でワインを開けた。


少し酔いが回り、俺は久しぶりに心からリラックスしていた。


「ねぇ、莉子。最近さ…」


 俺は、莉子がスマホを肌身離さず持つようになったこと、夜中に一度起きたとき、ベッドサイドの画面がロックされていなかったこと、そして、会話の途中で明らかに上の空になる瞬間に気づいていることを伝えようとした。


しかし、莉子が先に口を開いた。


「紘汰。私、最近デザインの仕事で結構忙しいの。この前のクライアント、すごく細かくて…」


莉子は仕事のグチを話し始めた。


 俺は、彼女が自分のことを話すのを遮りたくなくて、聞き役に徹した。


結局、俺の心の中に溜まっていた違和感や疑問は、蓋をされたままになった。


その翌週


俺は、出張先から東京へ戻る新幹線の中で、同僚に電話をかけた。


「最近、妻が冷たい気がして。会話も続かないし、なんか…距離があるっていうか」


同僚は笑った。


「奥さんも仕事してるんだろ? お互い様だよ。奥さんが冷たいんじゃなくて、お前が疲れてるだけだよ。たまには早く帰って、皿洗いでもしてやれ。そうすりゃ、機嫌も直る」


「深く考えんな」


この言葉に、俺は救われた。


そうだ。莉子が冷たいのではなく、俺が疲れているんだ。全ては、俺が忙しすぎるせいだ。俺が家にいる時間を増やせば、全て元通りになる。


「自分のせい」だと結論付けることで、俺は「莉子に何か別の問題がある可能性」、


つまり彼女の心に亀裂が入り始めているという恐ろしい現実から、目を逸らすことができた。


これは、俺にとって最も都合の良い逃避だった。


  俺は、莉子のスマートフォンに**「悠人」という名前の通知が表示されているのを、まだ知らない。


その幼馴染が、彼女の心の隙間を埋める存在になっていることにも、まだ気づかない。


俺は、全てを「自分のせい」にして、今日もまた、莉子への関心をPC画面の中の数字と資料に捧げる。


これが、「見えない亀裂」を決定的に広げていることに気づかずに。




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