偶然はいつもそこに

倉井繊

第1話

「幸福のために何が必要なのか、分かるか?」

「突然ね。今の社会においてなら、富・名声・力とか」

「全く違う!幸福のための条件、それは偶然なんだ!」


 菊野台高校校舎から道路を挟んで建てられた部室棟。そこにある普通の教室の十分の一程度の大きさの部屋で、俺は叫んでいた。

 部室棟と名前は付いているものの建物が古くエアコンもないため、運動部の着替え場か文化部の物置程度にしか使われていない。俺が居るこの部屋もパイプ椅子が一脚あるだけの殺風景な部屋だが、大声を出しても文句を言われないのが優れた点だ。


「物語の主人公たちは常に偶然に恵まれている!始まりは、常に、偶然なんだ!俺は偶然を求めている!だからこそこうして、同好会を作り、行動を開始しているのだ」

「論理が飛躍しすぎ。あなたの指し示す“偶然”って、美しい女性との運命的な出会いであって、その場として同好会を設立したということよね。生憎メンバーは一人しかいないわけだけど」

「今は偶然を引き寄せるための準備期間だ!長期的視野を持ってだな……」

「そもそも、あなたは特定の偶然を求めているわけだけど、それを目的としてしまったらその結果は必然と等しくなってしまわない?偶然というものは予期せず現れるものでしょ」


 この女は俺に対していつも反論をしてくる。忌々しい。


「確かに可愛い彼女を作って青春を謳歌することが目的ならば、お前の言う通りだろう。しかし俺が求めているのは、互いに結びつきのなかった人間同士が唐突に交錯する、そういう事態だ!」

「形式にこだわって、大変ね」


 話の煮詰まりを感じて窓を眺めると、サッカー部が練習している姿が見える。

 いいパスをもらった選手が華麗にシュートを外しているところだった。


「あなた、もう少し他の人と話した方が良いんじゃない。凝り固まった理論を反復していると、どんどん捻くれた性格になるし。まあ手遅れかもだけれど」

「だからこうして、他者と対話しているのだろう」

「私はあなたの妄想なのだから、他者とは言えないでしょ」


 ……そう、俺が語りかけているのは妄想にすぎない。俺の戯言をツッコミながら聞いてくれる美少女など、存在するわけがないのだ。


「毎日こんな独房みたいな部屋で独り言なんて、いい趣味してるわね」

「まあな。妄想を妄想だと理解しているだけ、まだマシだろう」

「自分を狂人であると自覚していても、狂人は狂人でしょ」


 彼女が語る言葉はすべて俺から生まれてくる言葉だ。彼女の反論も、それは俺が行った俺に向けての反論でしかない。


「折角美少女と話す妄想をするなら、もっとイメージを精緻にすることを提案するけど」

「……やってみるか」


 無造作に置かれたパイプ椅子を見て、そこに座る彼女を想像する。

 俺と同じ菊野台高校の制服。艶やかな長い黒髪に白磁の肌。切れ長の瞳でこちらをじっと見据えてくる。


「あなた、妄想すら貧相なのね。黒髪ロングとかテンプレすぎよ」

「うるさい。こういうのに独創性は要らないんだよ」


 スラリとした足にスレンダーな体型。細く伸びた指は容易にピアノのオクターブも容易に届くだろう。


「性格と外見が決まったなら、あとは名前ね。可憐で怜悧なこの私に相応しい名づけを期待するわ」

「お前は俺にしか見えないんだから、わざわざ名づける必要あるか?名前って、皆がそれだと分かるようにするためのものだろ」

「あなた、そんなんだからモテないのよ。人の名前を呼ぶという行為は、ただの目印じゃない。そこには愛着とか、温もりとか、悲哀とか、憎しみみたいなものがどうしたって介在してしまうものなの。いいからさっさと考えなさい。」


 ペット一匹飼ったことのない俺には難しい注文だ。

 今目の前に居る(と妄想している)こいつは、所謂タルパだとか、イマジナリーフレンドのような類だろう。

 俺は彼女にどんな存在であってほしいと願っているのだろうか。彼女?友人?アドバイザー?俺はただ、言葉の捌け口を求めているだけなのか?

 思考が逸れていた。とにかく今は名前だ。名前、名前、名前……


「深く眠る欲望から生まれた妄想で、深想みおなんてどうだ」

「ふーん、まあ及第点かしらね。これからは気軽に呼んでくれていいわよ」


 しかし、こんな会話をしていても俺が狭い部屋に一人でいる事実は変わらない。そのことが頭をもたげてきて、閉塞感を覚えた。


「はぁ、こうしていても仕方ない。外に出るぞ」

「また偶然を求めての街徘徊?よく飽きないね」


 俺はその言葉を無視して外に出た。

 菊野台高校は上井駅と根太駅の中間に位置している。徘徊に適した土地は根太駅の方角だろう。上井駅近くは人通りも多く開発されているが、広々とした道が多い。それに対して根太駅方面は古い町の構造が残っている地域のため、狭い路地が多く探索する甲斐がある。


「いくら散歩しても、偶然の出会いなんてそうは転がってないと思うけど。パンを口にくわえた女子高生とぶつかるまで歩く気?」

「そういう訳じゃないが、あの部屋にいても埒が明かないしな。それに、この前は道に迷ってるおばあさん助けたらお菓子貰えたろ」

「あなたの欲している偶然って、そういうこと?」


 そうして十分ほど歩いていると、洋風な一軒家を見つけた。庭には白塗りのイスとテーブルが置いてあり、優雅な雰囲気が漂っていた。


「ほら、あの最上階の窓を見てみろ。熊のぬいぐるみが飾ってある。きっといたいけな少女が住んでいるに違いない」

「その女の子がひょっこり顔をのぞかせて、こちらを見てくるのを期待してる、と」


 そこに美少女が本当に住んでいるのかどうかはわからないが、そこには偶然の萌芽がある。そうした偶然の可能性に立ち会い続ければ、いつか身を結ぶだろうと期待している。


「まあ、もしそんなことがあっても、今の状況的に変質者だと思われておしまいね」


 制服を着ているから、あまり変なことをして学校に通報されたらたまらない。立ち止まって観察したい気持ちを抑えて立ち去った。


 その後一時間程彷徨ったが、特別何かが起こることはなかった。


「生憎、今日も何も起こらなかったわね」

「ああ、そうだな」

「そろそろ帰る?」

「……ああ、そうだな」

「折角だし、駅近くの商店街で何か買っていきましょうよ。私、角の所にあった飴屋気になってたのよ」


 日が暮れていく。この時間になると、いつも胸が締め付けられるような気分になる。夕日に照らされた彼女を思い描いて、何とかその寂しさをごまかそうとする。しかし逆光に照らされて、彼女の顔がよく見えない。


「どうしたのよ、いきなり黙って。歩き疲れたのかしら」

「多分そうかもしれない。少し、疲れた」

「シャキッとしなさいよ、まだ何も始まってないわ。明日も偶然を探すんでしょう」


 確かに、未だ俺はスタート地点にすら経っていない。物語の始まる以前の問題だ。

 俺は彼女と商店街に向かいながら、明日の可能性に思いを馳せた。

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