第45話 麗子は哲司に合わせて行動した

 やがて、八月も残り少なくなった。

九月は軽井沢の別荘を閉めて東京に帰る月である。毎朝、目覚めと共に麗子は不安に駆られるようになって来た。

この夏は言わば特別だったんだ。東京ではいつもの生活が私を待って居る。大学や病院の仕事にチャリティーの催し、ランチの約束にディナー・パーティーの数々、それらがびっしりと網の目のように詰まったスケジュールが待って居る。おまけに東京には私の両親、特に口煩い母親が居る。チクリチクリと意地悪な小言を並べる母親が居る・・・

麗子は、然し、そうは言っても、哲司が床にタオルを置き放なしにするように、彼を軽井沢に置き去りにして東京に帰ることは出来なかった。

「ねえ、私と一緒に東京へ来て欲しいの」

或る夜、彼女は言ってみた。

「俺、東京は嫌いなんだ」

哲司が答えた。

「但し、ロックやジャズをやっているクラブや喫茶だけは別だけどね」

麗子が続けた。

「あなたの夢が全部東京には有るのよ、どう?」

「一緒に住んでも良いのかな?」

「それは無理だけど、でも、毎日一緒に居ることは可能よ、特に夜は、ね」

そんな訳で哲司は麗子の直ぐ近くのマンションに引っ越して住み始めた。が、それは、頭金から賃借料まで、それに生活費の全てまでを彼女が負担して住まわせたことだった。

 最初のひと月、麗子は何もかもを哲司に合わせて予定を立てた。

九月は哲司が通う大学の前期試験の月で、然も、その期間は三週間にも及んだので、彼の精神はいつも緊張状態が続いていたし、感情の起伏も激しかった。

麗子は、哲司が勉学する時間を作る為にディナーには一人で出かけ、彼が友人たちと過ごす時間帯には祥子と二人でランチを食した。父とは仕事で顔を合わせていたが、小言を聴かされる母には逢いに行かなかった。


 然し、十月に入って哲司の前期試験が終わると、彼女は彼をテーラーに連れて行って新しいジャケットを誂え、髪もカットさせて身嗜みを整えさせた。そして、何時の日か、哲司を公の場に連れ出す日の為に彼女はあれこれと彼に教え始めた。

「食事のテーブルマナーはちゃんと身に着けなきゃ駄目!」

「洋服はハンガーにきちんと掛けるのよ」

「タオルは床に放置しないで」

 ところが、哲司は日を増すに連れて黙り込むことが多くなり、次第に不機嫌になり、殆ど会話をしなくなった。

年の暮れのクリスマス・イブには、横浜に住む友人の家に招待されたのに麗子は断った。

この三年間、必ず顔を出していた新年のパーティーにも今年は出かけずに自分のマンションで哲司と過ごした。麗子は全てを彼の為にと奉仕したのだった。

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