第39話 「わたし、産むの、シンイチの子を」

 クリスマスが終わってニュー・イヤーになり、やがて、寒い雪の季節となった。慎一にとってはニューヨークで迎える二度目の冬だった。

気温は東京とそれほど違わなかったが、空気が乾燥していて「寒い」と言うよりは「痛い」と言う感じだった。ニューヨーカーたちは耳までカバーする帽子を被ったり、耳当てをしたりして肌の露出を控えていた。慎一は外へ出かける時にはヒートテックの防寒着を着用し、靴底がしっかりしたブーツを履いた。雪が降ると、ファー付きのフードをすっぽり被り、フェイス・マスクやマフラーでしっかり顔を護った。それでも乾燥すると、唇だけでなく顔の皮膚がパキパキになった。

ニューヨークは水捌けが悪く、車道と歩道の間の溝に水が溜まりがちで、気温が氷点下を割るとそれが凍って危険な状態になった。

だが、部屋の中は暖かかった。セントラルヒーティングの暖房で、温度に合わせて自動で点いたり消えたりした。彼は不要不急の外出は避けた。

 慎一は定期的に弘美に手紙を書き送った。それは今や彼の日常のルーティングな慣習となって、京都に残した婚約者への義務と責任の如きものになっていた。当初、必ず末尾に書き綴った「弘美、心から愛しているよ!」の文言はいつの間にか文面から消えていた。

弘美からの返信は、その都度、きちんと在りはしたが、彼女の便りもまた極めて有り触れたお座なりの内容で、慎一の心に響くようなことは何一つ書かれていなかった。弘美もまた、義務と惰性で応対したのだった。

それでも二人はお互いの関係を断ち切る事無く、遠く離れて暮らす婚約者としての立ち位置を保ち続けた。

 

 三月になってもニューヨークは寒かった。最低気温は氷点下を記録し雪も降った。暖かい日も一、二日は有ったが、防寒の為のダウンジャケットや帽子、ブーツが必要だった。

気温が低いにも関わらず第二日曜日からサマータイムに変更され、夏時間仕様に時計を一時間進めた。

そんな矢先だった。慎一に日本への帰任が発令された。

慎一は二年振りに帰国することに思い惑った。何よりもキャサリンとの別離が彼の心を重くした。

キャサリンはじっと慎一の眼を覗き込みながら問いかけた。

「何か、心配事が有るみたいね、シンイチ」

柔らかい穏やかな口調であった。

「うん・・・」

彼女は何も言わずに慎一をじっと見つめて、続きを待った。

慎一は深く息を吸い込んだ。

「実は・・・」

彼は後に続く告別の言葉を少しでも和らげようと間を置いた。

「今度、日本へ帰ることになったんだ、配置換えで。本社勤務を命じられたよ」

「あっ、そう・・・」

キャサリンはそれっ切り押し黙って俯いた。

それから、彼の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。彼女の滑らかな肩の線が一瞬、震えた。此方に振り向いた口元も微かにヒクついていた。彼女は慎一の方を見ようとしなかった。

慎一は言った。

「一応昇進扱いにはなっているんだ。これからは幹部候補の一員としてバリバリやってくれ、と上の方では言っている」

「・・・・・」

その時、キャサリンの視線が彼の眼を捉えた。

「聞きたいのはそんなスピーチじゃないわ。あなたは帰るんでしょう?会社の命令に従って日本へ帰るのね。もっと他に言うことは無いの?」

慎一はテーブルの上のグラスに手を伸ばして一口啜った。苦い舌触りだった。

不意に、キャサリンが言った。

「私のお腹にシンイチの赤ちゃんが居るの」

「えっ?何だって?」

彼には衝撃の言葉だった。暫く次の言葉が継げなかった。

「そう。私が一番愛したシンイチの子供が、私のお腹の中に居るの」

彼は、どう応えて良いのか惑って、キャサリンの貌をじっと見詰めた。

「わたし、産むの、シンイチの子を」

「産む?」

「そう。私はシンイチから宝物を貰ったの。これは私の宝よ。だから、私は産むの」

「然し、僕は・・・」

慎一が何か言おうとすると、キャサリンが人差指を口の前に立てて遮った。

「何も言わなくて良いの。私は独りでこの宝物を産み出し、そして、大きく育てるの。でも、認知だけはしてやってね、父無し児では、後々、可哀相だからね」

「然し・・・」

「子供が大きくなったら、あなたの父は遠い日出ずる東の国に居るわ、って教えるの」

「・・・・・」

「良いの。最愛のシンイチの子供を私が独り占めするの、これは私の宝物よ。それが私の幸せなの。私はウジウジしないの、もう決めたの。だから、この話はこれでお終いよ」

養育費や生活費の心配は皆無にしても、キャサリンの態度は潔く小気味良かった。

慎一は答えようも無く、唯、彼女の貌をじっと見詰め続けた。

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