夢を拾う灯台
凪生
光の果てに
第一章 消灯
夜が眠っていた。太陽も。そして、星さえも。
眠れないのは、まるで僕だけかと思う夜――。
今日も灯台に灯をつけるため、階段を上る。
湿った夜の空気に響く足音が、伽藍洞の心にこだました。
海風がヒューっと鳴り、マフラーをなびかせる。
「こんなこと、いつまで続けるんだろうな」
かつて漁港として栄えた町、
誇り高かった灯台も、今となっては旧型の無人塔だ。
本来なら取り壊されるはずだったこの塔は、なぜか今も残っている。
もはや、それを守る大義名分もない。
それでも僕がここにいるのは、ただ手が“余っていた”からだ。
──たったそれだけの理由で。
階段を上り終えると、風は止んでいた。
夜の海を見つめ、軽く息を吸い込む。
肺が少しだけ戸惑っているようだった。
まだ、この仕事には慣れない。
ランタンの灯を、ただ移すだけなのに。
灯をともすとき、なぜか手が震える。
火傷のせいではない。
「まだ、全然だめだな」
使い物にならなくなった左腕はともかく、
こっちまでダメとあっては、
かつての造船仲間に顔向けもできない。
――三年前。
海の底みたいに暗い造船所で、何かが軋んだ音がした。
「危ないっ!」
言葉に反応する間もなく、
黒い鉛のような物体が降りかかるのを見たのが最後だった。
目が覚めると、そこは病院。
左腕の感覚はなく、両腕には火傷の跡と鉄と油のにおいが残っていた。
ふと、病室の窓際に目をやる。
昼下がりの木漏れ日と、風が運ぶぬるい空気が心地よかった。
テレビ脇の花瓶には、ガーベラとカスミソウ。
見舞い人が来ていたらしい。
不意に、ズーッと音がした。
病室の扉が開き、作業服の男が、その身なりに似合わない
トルコキキョウを抱えていた。
「……っ!! 先輩!! 気がつきましたか!!」
……どうやら、事故だったようだ。
状況が把握できず戸惑う僕に気を遣いながらも、
同僚の後輩は当時のことを淡々と説明してくれた。
クレーンの劣化と点検不備。
イレギュラーな足場のがたつき。
不運が重なり、その巨体が僕の上に倒れた。
生憎、その衝撃で燃料に引火。
早期の消火活動が功を奏したものの、造船所の復興には
まだ時間がかかるという。
……ぐすっ。
突然、彼のむせび泣く声が、病室に静かに響いた。
彼の視線は、包帯で覆われた僕の左腕に落ちている。
「先輩……あのとき、俺がもう少し早く……。」
言葉の続きを、僕は聞かなかった。
いや、聞く勇気がなかった。
他人の過失と向き合って生きる気概も、気力もなかった。
残ったのは、この中途半端な器だけ。
「もう、来る必要はないさ。きっと、それがお互いのためだ。」
状況整理も感情整理もできぬまま、
僕の口から出たのは、そんな言葉だった。
その後、体力だけは順調に回復し、僕は退院を余儀なくされた。
退院直後、職場には身体的な不調を理由に、辞表を提出した。
第二章 労働
甘く見ていた。
正直、わざわざ労働に身を置く必要はなかった。
造船所から振り込まれる保証金だけで、食うに困ることはない。
それでも僕が、再び外界との接点を保ったのは、
その方が気が晴れるんじゃないかという、安易な発想だった。
実際、旧式灯台の管理作業は、病み上がりの身には過酷だった。
燃料の補給、灯心の調整、レンズの掃除。
何より、回転機械装置の巻き上げ作業は、両手を使えない分、
苦戦を強いられた。
分銅を取り付けたロープを、ハンドルを操作しながら巻き上げていく。
「……くっ! 重いっ!!」
新型無人式のモーター稼働と違い、
人力でこの作業をする馬鹿馬鹿しさを噛みしめながら、
僕は右腕の力だけを振り絞って分銅を巻き上げる。
全身汗だくになりながら作業に没頭していると、
夜には珍しく、手すりに一羽のカモメがとまってこちらを眺めていた。
「………。」
何を語るでも、鳴くわけでもない。
カモメはジーっと僕を見つめている。
自ら進んで意味のない作業に没頭する僕の姿は、
さぞ滑稽に映っていることだろう。
点灯とその調整作業を終えて、僕は離れの小屋で休息をとっていた。
夜の作業で冷えた体に、温かいイルガチェフェを注ぎ込む。
「ふぅ~。あったまるな。さて、そろそろ巻き上げの時間だな。」
旧式灯台の仕組みは驚くほどアナログだ。
数時間おきに、分銅を巻き上げなければいけない。
新型の灯台がある今、律義にそれを守る必要はないのかもしれない。
しかし、もともと造船に携わっていた性(さが)のせいなのか、
海に光を届ける作業を怠ることには、不思議と気が引けた。
防寒服に袖を通し、僕は小屋の扉を閉めた。
……おかしい。
灯台元、暗し。
この国にはそんな諺がある。
しかしその晩、僕の視線の先には、灯台元にかすかな灯が
ともって見えた。
点検時の見落としか、不備による火災事故なのか。
かつて僕の身を襲った災害が脳裏をよぎる。
気づけば、僕は慌ててその灯のもとへと駆け出していた。
「っ!! はっ、はぁっ!!」
焦燥と胸騒ぎ。
最悪の事態を想像し、僕は夢中で走った。
燃料に引火でもしたら、この灯台はもろとも、
あたり一面は焼け野原と化すだろう。
灯台のふもとについた。
幸い、風は吹いていない。
非常用の水道からホースを引き、僕は急いで灯の元へと歩を進める。
もはや、海辺まで目と鼻の先というところ。
なんとも奇妙な光景に、僕は絶句した。
少女がいる。
小さな蝋燭の灯を丁寧に瓶に詰め、沖へと流している。
さながら、季節外れの灯籠流しのように。
――こんなところで何をしている。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
しかし、その言葉が宙に舞うことはなかった。
月の光が海に差し込み、ゆらゆらと揺れる水面の灯が、
それを押し止めていた。
不意に、少女は僕に気づいて振り返った。
夜の闇が彼女の顔を薄暗く彩り、月の光が髪の光沢で反射する。
「……ねえ。夢、拾ってくれない?」
これが、彼女が初めて僕に放った言葉だった。
第三章 迷子
澪――。
それが彼女の名前らしい。
おそらく、家出だろう。
年頃の学生が奇行に走るのは、何も珍しいことではない。
僕にも、似たような経験がある。
外に出たいんじゃない。
帰る場所がないんだ。
気がかりなのは、彼女の目には放浪者独特の虚ろさが
宿っていないこと。
いや、もしかすると目の錯覚だろうか。
瞳に宿る燈籠の灯が、彼女に宿る生気を曖昧にしていた。
――数分だったのか、数時間だったのか。
気づけば水平線の先からは、日の出の気配が漂っている。
真っ暗だった空は青みがかり、薄い桃色と混ざったその境界は、
無数のオレンジの層を帯びていた。
ふと、沖に目をやる。
海へ漂っていった瓶の一つが、こちらの岸辺に打ち上げられた。
灯はまだ灯っている。
じゃり、じゃり。
日の出を眺めている澪の姿を横目に、僕はその瓶に歩み寄り、
拾い上げた。
「一つ、戻ってきちゃったね」
隣にいた少女は僕に語りかけた。
「つい、拾ってしまったよ」
彼女はにこやかにほほ笑むと、照れくさそうに笑って見せた。
「その子、きっと拾ってほしかったんだよ。」
気づけば空はすっかり青みを強め、
鋭く差し込む朝の陽ざしが、彼女の瞳を照らしている。
「ねえ、また来てもいい?」
彼女の奇行を咎める理由も、それを阻める手段も、
今の僕には思いつかない。
今はただ、朝日に照らされた灯籠の門出を、
彼女とともに見守っていた。
拾い上げた灯を片手に抱いたまま。
日が昇り始めたころ、澪は去っていった。
その間際、僕を見つめて何か言いたげな瞳をしていたが、その口が
言葉を告げることはなかった。
「あまり、深入りするのもよくないな」
小さく独り言をこぼすと、それは白い吐息となって、そして消えた。
僕は蝋燭に灯の灯った瓶を片手に、小屋へと戻る。
「にしても、変わった子だったな」
朝日を背中に受けながら、僕は小屋の扉を閉めた。
昨晩、澪の仕業で休憩がままならなかったせいもあり、
睡魔が歩み寄ってくる。
今晩の点灯作業に備えて、今は睡眠を確保したいところだ。
ことん。
僕は片手に持っていた瓶を、寝床近くの小棚に置いた。
蝋燭の灯が、近くの書棚に細い光を差し込む。
よく見ると、うす暗い書棚の陰に、1冊の本が置いてある。
「日記かな?」
埃の被った1冊の本。
恐らく、前任者の遺物だろう。
「開くのは野暮だな」
僕は年季の入った本を、そっと書棚に戻した。
―― その日の晩、事件は起きた。
ドンドン――。
激しく扉をたたく音がした。
一度目の点灯と巻き上げの作業を終えたあと、僕は休憩をとっていた。
強風でバケツでも飛んできたのだろうか。
呑気にそう思いながら扉を開けると、血相を変えた澪が
そこに立っていた。
「おじさん! 灯台、なんかおかしい!」
「そんなはずないよ。さっき点灯も点検も終えたばかりだ」
「でもおかしいの!」
澪は言うが早いか、僕の腕をつかんで外へ引っぱり出した。
風の音に混じって、海鳴りが近づいてくる。
「……止まってる?」
半信半疑で見上げた灯台は、確かに異変を起こしていた。
レンズが回っていない。灯もわずかに弱まっている。
「直してくる」
僕はそう告げて澪の手を離そうとしたが、彼女の細い指は頑なに
僕の腕を離さなかった。
「私も行く!」
理由はわからない。ただその必死な眼差しに、僕は押し切られる
形で走り出した。
灯台のふもとに着くと、冷たい潮風が階段を巻き上がってくる。
僕と澪は急いで螺旋階段を駆け上がった。
――原因はすぐにわかった。
燃料は十分に残っている。だが、レンズを回す分銅のロープが
途中で千切れていた。
重りが落ちれば、ギアも止まり、光も動かない。
「寿命だな。観光客向けの飾りみたいな灯台だし、これでもう充分さ」
「……だめ。そんなの、絶対だめ」
澪の声は鋭く震えていた。
「燃えてるだけじゃだめなの。ちゃんと――届けないと」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
“届ける”。いったい誰に? 何を?
でも、その問いより先に身体が動いた。
「やろう」
僕は床に落ちていたロープの切れ端を拾い上げる。
「結び目。いぼ結びでいい。頼む」
澪は黙ってうなずき、手際よく結び目をつくる。
その間に、僕は古びた脚立を持ってきて、内壁の縁に立てかけた。
左手はもう使えない。だが、造船所で覚えた手の感覚が
まだ残っている。
脚立を一段ずつ登り、歯でロープをくわえ、輪をつくって結ぶ。
「澪! レンズを少し下に向けてくれ!」
「うん!」
塔の上から差し込む灯が、暗闇の分銅室を照らした。
光の中、僕は最後の結び目を締める。
――ギィ、と機構が動き出した。
レンズが回転し、灯が再び海を照らす。
「……よし」
汗も、寒さも、もう感じなかった。
ただ、胸の奥にひと筋の温かさが広がっていく。
僕は螺旋階段を上った。
――そこに澪の姿はなかった。
代わりに、手すりの上で一羽のカモメがこちらを見ていた。
風の中、その羽だけが、光を受けて白く揺れていた。
たった二日間の出会い。そして、突然の別れだった。
交わした言葉は少なかったが、その消え方には釈然としない。
まるで、亡霊と過ごした夢を見せられていたようだった。
小屋に戻り、防寒着を椅子に掛ける。
書棚の前に置いた小瓶の灯から、消えたばかりの煙のにおいがした。
「……ついさっきまで点いていたのか?」
澪の消失と同時に灯が消えたような気がしてならない。
煙は宙をたどり、昨夜手に取った日記に吸い込まれていく。
――この中に、何かがあるのかもしれない。
他人の記録を覗くことにためらいはあったが、
澪の消失に動揺した僕は、
震える指先でそのページをめくった。
『医者の話では、あまり芳しくないようだ。おそらく長くはもたない。』
どうやら、病を患っていたらしい。
『最近、巻き上げの音に軋みが出ている。近いうちにロープの交換が必要だ。』
やはり前任者も、異変に気づいていたようだ。
その責務を果たせぬまま、この灯を去ったのだろう。
『黒い海の向こうに、点のような漁火がいくつも揺れている。
それは命の灯。
私が光を絶やせば、それは彼らの死を意味する。』
……格が違った。
灯台守としての矜持が、この短い文に凝縮されていた。
『今日も無事、海心丸が帰港した。』
海心丸――。
それは、かつて僕が造船に携わった船の名だった。
三年をかけて手掛けた、誇り高い一隻。
『入港前に鳴らす三度の汽笛。これだけが、私の生きる糧だ。』
思いもしなかった。
自分の手で造った船が、
見知らぬ灯台守の心を支えていたなんて。
『私の目も
それでも見える。漁師たちの安堵の表情が。』
――かつて、この灯台が本当に“生きていた”ころの記録。
彼の言葉が、胸の奥を熱くした。
『灯台守の夜に休みはない。
彼らはこの光を頼りに帰港する。
もう三十年になる。
今となっては、この炎の揺らぎが愛おしい。』
三十年。
その数字が胸に沈んだ。
誰にも知られず、賞賛もなく、
ただ光を絶やさぬために生きた男がいた。
『今年の彼岸も、澪の墓参りに行く。
もう二十年も前だというのに、彼女の笑顔がまだ離れない。』
――澪?
墓参り?
思考が凍りつく。
ページをめくる指が止まらない。
『一瞬だった。
澪が手すりの隙間から足を滑らせたのは。
片時でも澪から目を離した自分が、今でも許せない。』
……。
僕は、そっと日記を閉じた。
第四章 点灯
ブルルルルル――。
昼下がり、トラックのエンジン音が近づいてくる。
僕は小屋の扉を開けた。
「先輩、お久しぶりです」
「おう。しばらくだな」
海風が沈黙のあいだを吹き抜けた。
気まずさと罰の悪さが、久々の再会を包んでいる。
「ワイヤー、持ってきたか?」
「はい。荷台に積んであります」
「早速だけど、手を借りていいか」
銅製のワイヤーが欲しかったが、頼るつてもない。
造船所の元同僚に連絡を取ったところ、彼を紹介された。
「まさか漁師になっていたとはな」
「ええ。親戚のつてで」
かつて病室に見舞いに来てくれた後輩は、
すっかり日に焼けて、逞しく見違えていた。
「このワイヤー、何に使うんです?」
「ああ、来ればわかる」
二人でドラムを台車に載せ、灯台のふもとへと歩く。
会話の代わりに、傾いた陽射しが二人を照らしていた。
「これだ」
「うわぁ……年季が入ってますね」
「このロープが駄目になってな。手を貸してくれ」
二人がかりでドラムを抱え、螺旋階段を上る。
日頃の漁で鍛えられているせいか、彼は軽々とした足取りだった。
僕は右腕に力を込め、顔を引きつらせながら言う。
「くっ……重いな」
ようやく頂上に着くと、汗が額から滴り落ちた。
「ふう……さて、やるか」
一呼吸おいて、作業に取りかかる。
古いドラムを外し、新しい銅製ワイヤーを取り付けた。
「せーのっ!」
掛け声に合わせて二人で持ち上げる。
ガゴッ、と金属が噛み合う音がした。
「よし。あとはこのハンドルを回してくれ。俺は下で重りをつけてくる」
「了解です」
僕は螺旋階段を下り、
降ろされたワイヤーの端を分銅に引っかける。
下から彼に両手で丸を作って合図を送った。
再び階段を上る。
窓の外では、夕陽が海面を金に染めていた。
「少し早いが、灯すか」
頂上で合流し、点灯の準備を進める。
火を灯し、新調したドラムを巻き上げる。
手応えは以前よりも重い。だが、それが確かな実感でもあった。
そのとき、手すりに一羽のカモメが舞い降りた。
相変わらず、黙ってこちらを見ている。
僕は構わず、灯を海へ向けてゆっくりと調整した。
「この灯台、昔事故があったらしい」
「事故……ですか」
彼の表情が一瞬、曇る。
「女の子がな。足を滑らせた」
「……」
「前任者の親父さんの日記が残っていた。死ぬまで苦しんでいたようだ」
僕は静かに続けた。
「俺は、ここで海を照らす。
だからお前も、自分の人生を生きろ」
「……っ!」
嗚咽まじりの声が風に紛れた。
沈みゆく夕日が、水平線の彼方へと沈んでいく。
そのとき、カモメが羽ばたいた。
藍と橙のあわいを、ゆらりと滑るように。
灯台の灯が回る。
その光は、暮れゆく海と、去っていく影の跡を
静かに、そして確かに照らしていた。
夢を拾う灯台 凪生 @nagio_spiral
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