第11話:恋とキャリアの二択
告白の熱が冷めやらぬ、その日の夜。
僕と美咲は、誰もいなくなったオフィスで、人事部から届いた一通のメールを、並んで読んでいた。
【件名:社内恋愛に関する規定について】
本文には、無機質な文字で、こう記されていた。
『同一プロジェクト内での恋愛関係が認められた場合、利益相反を避けるため、どちらか一方が速やかに別部署へ異動するものとする』
「……やっぱり、か」僕が呟くと、隣で美咲が、唇を噛み締めた。
あのプレゼン以来、僕たちは、まだ、お互いの気持ちに対する「返事」をできていない。ただ、この冷たい現実だけが、僕たちの間に横たわっていた。
(【二択問題:キャリアvs恋】
・選択肢A:俺が異動。→プロジェクト継続。美咲のキャリア維持。俺たちの関係、停滞。
・選択肢B:美咲が異動。→プロジェクト遅延。美咲のキャリア停滞。俺たちの関係、前進?
・結論:データ上の最適解は存在しない。だが、心の価値観では、解は一つだ)
僕の心は、もう決まっていた。
数日後、僕と美咲は、上司と佐久間先輩との四者面談に臨んでいた。重苦しい空気の中、上司が規定を読み上げる。
「――というわけで、規定に則り、どちらかに異動してもらうことになる」
「異動先だが、相葉くんは、関連会社のデータ分析室。高橋さんは、広報部のマーケティング課を考えている」
どちらも、今のプロジェクト『イヴ』からは、完全に外れることになる。僕たちの恋が、ようやく始まったと思った瞬間に、また、引き裂かれようとしていた。
「待ってください」佐久間先輩が、静かに口を挟んだ。「この件、もう少し、猶予をいただけませんか。タイミングの問題でもある」
その言葉は、僕を試すようでもあり、励ますようでもあった。
だが、僕は首を振った。
「……俺が、行きます」
沈黙を破ったのは、僕だった。
その瞬間、誰のキーボードも鳴らなかった。オフィスが、世界の音を忘れたみたいに、静まり返った。
「え……」美咲が、驚いたように僕を見る。
「俺が、異動します。彼女は、このプロジェクトに必要です。俺よりも、ずっと」
「陽太……」
「決めたことだ。それに、俺は一度、この会社を裏切った身ですから」
そう言って、僕は無理やり笑ってみせた。これが、僕の覚悟だ。データじゃない、僕自身の、意志だ。
面談が終わり、オフィスに戻る。美咲は、ずっと、何も喋らなかった。その日の午後、僕たちは廊下ですれ違ったが、気まずく視線を逸らすだけだった。
その夜。また、二人きりのオフィス。美咲は、自分のデスクで、静かに泣いていた。
「……なんでよ」彼女が、絞り出すような声で言った。「なんで、あんたが、また、犠牲にならなきゃいけないのよ」
「犠牲なんかじゃ、ない」
「嘘よ! あんたは、いつもそうだ。私を守るために、自分を捨てて……。もう、そんなの、見たくない……!」
(陽太の無理した笑いを見て、守られた罪悪感が爆発する。違う。今度は、私が、この恋を守る番だ)
僕は、彼女の隣に立ち、その震える肩を、ただ、見つめていた。
「……私が、決める」
美咲が、涙に濡れた顔を上げた。その瞳には、半年前とは比べ物にならないくらい、強い光が宿っていた。
「私が、決めるの。私のキャリアも、そして、あんたとの恋も。もう、誰かのデータや、会社のルールで、終わらせたくない」
彼女は、立ち上がると、僕の前に立った。
「陽太を好きでいられるうちは、まだ私、戦えるから」
その言葉は、僕への、そして、彼女自身への、誓いのように聞こえた。夜のオフィスの冷たい光が、彼女の決意を、静かに照らしていた。
寸前で止まる手。見つめ合う瞳。始まりの夜。
別れのようで、始まりのような、長い、夜だった。
その数日後、佐久間先輩は、誰もいなくなったオフィスで、二つの空席を見つめていた。
(相葉、君の勝ちだな。タイミングも、データも超えるのが、恋か……)
彼は、静かに笑った。
(第十一話 終)
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