第6話 ヴェルナの本気
三日目午後。
勝負の舞台は、地獄温泉郷の中心にほど近い、大型の露天風呂へと移っていた。
小高い丘に設けられたその湯は、見晴らしが良い。
温泉街の全景、森の稜線、遠くの街並みまでが一望できる。
泉種も多彩で、火属性耐性を持たぬ者が誤って入れば、火傷では済まない湯まで用意されている。
観光案内にも必ず載る、いわば「王道」の露天風呂だった。
「ここは、私が入るわ。準備してくれる」
ヴェルナの言葉に、スタッフの動きが一瞬だけ止まる。
「今回の撮影では、
「私を主役に撮る必要はないわ」
遮るように、ヴェルナは言った。
「この湯の満足度を上げるために入るの。それ以上でも、それ以下でもない」
きっぱりとした口調。
その表情に、迷いは一切ない。
少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていたルピナは、思わず呆然と口をあけていた。
(えっ!? それ、ずるくない?)
別にずるくはないのだが、そう思わずにいられない。
ヴェルナはサキュバスだ。
ヴァンパイアにも『魅了』の能力はあるが、サキュバスの持つそれは系統が違う。
魅せることを、生き様として積み上げてきた種族。それがサキュバスだ。
ヴェルナは、カメラの前に立つと一度だけ深く息を吐いた。
そして、ごく自然な動作で外套を脱ぐ。
「おおおおおおお」
周囲の客および、スタッフから感嘆の声が上がる。
水着姿。
露出は過剰ではない。
だが、温泉という舞台においては、それだけで完成している。
「回して」
合図と同時に、浮遊カメラが静かに動き出す。
ヴェルナは湯の縁に腰を下ろし、つま先からゆっくりと湯に触れた。
一瞬だけ目を伏せ、温度を確かめる。
「いい湯ね」
低く、柔らかい声。
その声は、魔法のように空間を震わせた。
足首、膝、腰。
段階を踏んで沈んでいく所作は、計算され尽くした美。
急がず、溜めすぎず。
湯気が最も美しく立ち上る角度で、逆光が彼女の輪郭を神々しく縁取った。
ただ湯に浸かる。
それだけの動作が、完成された芸術のように無駄がない。
「あ……」
小さく漏れた吐息。
一瞬、周囲の音が薄れる。
風も、談笑も、湯の湧く音さえも遠のき、視線だけが一点に集まる。
「今の、見た?」
「ヤバいな……あれ」
客の視線は釘付けだ。
スタッフの視線も釘づけだ。
誰もが何もかもを忘れて見入ってしまう。
ヴェルナはそれを知っていて、知らないふりをした。
視線を集めることも、逸らすことも、すべてが自然だ。
「地獄温泉郷の湯は、刺激が強い印象を持たれがちですが……」
語り始める声は落ち着いている。
「実際には、とても素直。身体の芯から、ゆっくりと解れていきます」
湯の中で、指先がわずかに動く。
水面が揺れ、光が反射し、肌に沿って流れる。
それだけで「気持ちよさ」が伝わる。
歓声が上がった。
露骨で、率直な反応。
「すごい!」
「眼福……眼福……」
それを聞きながら、ヴェルナは小さく微笑んだ。
「はい、カット」
短く告げる。
スタッフが我に返り、慌てて動き出す。
確認するまでもない。
完璧に魅せる画が、完成していた。
ヴェルナは何事もなかったかのように湯から上がり、タオルを受け取る。
髪を押さえながら、ふと視線を動かす。
ルピナと、目が合った。
言葉が出ない。
すごいとか、上手いとか、そういう感想が全部遅れてくる。
(待て、落ち着け私……)
頭を振る。
ヤバかった。魔力抵抗はあるのに、油断すると持っていかれる。
ヴェルナの技術は凄い。
でも、それ以上に「そういう存在」なのだ。
湯に入るだけで、空気を変える。
人を集め、期待させ、欲望を肯定する。
(体形も、ずるいし……)
一瞬、どうでもいい比較が頭をよぎって、ルピナは自分で自分に呆れた。
ヴェルナが、目の前まで来て足を止める。
「どう?」
挑発でも、皮肉でもない。
純粋な確認だ。
「……すごかったですよ」
正直に答える。
嫉妬も、虚勢も、挟む余地がない。
ヴェルナは濡れた髪をかき上げ、怪しく目を細めた。
「これが、私の仕事よ」
淡々と、それだけ。
誇るでもなく、比べるでもなく、ただ事実として。
ルピナは、何も返せなかった。
懸命に積み上げた小さな石垣を、大波が一瞬でさらっていったような無力感。
湯気の向こうで、観光客たちはまだ興奮している。
その中心から、ヴェルナは静かに離れていった。
残されたルピナは、しばらく動けなかった。
(無理だな、これ……。
無理っていうか、ずるいっていうか)
胸の中でわだかまりが爆発する。
「こ、こんなの勝てるわけない! やってられるか――」
言い切る前に、喉が詰まった。
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