第5話 恋人の時間
翌朝。
陽がまだ昇り切らない薄青の空の下、二人は投石器のある丘へ向かっていた。
海風は夜の冷たさを引きずって鋭く、祭りの喧噪が始まる気配はまだ薄い。
それでも、薄暗い中で準備を進める人の姿がチラホラと見えている。
全体に漂うのは静けさと、騒ぎが起こる前の『深呼吸』のような空気だ。
「何だか良い雰囲気ですね。とりあえずカメラ回しながらで良いですよね」
「もちろんだとも! 何だか今日は良い画が撮れそうだよ、ルピナ君」
ローデンは妙に軽快な歩調で、靴音すら楽しげだ。
一方のルピナは、もたもたと魔導カメラを取り出しながら、時折眠い目をこすっている。
しかし、カメラを取り出した後の
(そう、私だって良い画を撮るのだ!)
二人は観客席の並ぶ広場を抜け、丘の頂上――投石器のある場所へ向かった。
§
丘の上に着くと、既に十数人の挑戦者たちが集まっていた。
昨日見かけた者たちも強烈だったが、今日の光景はさらにその上を行く。
羽根を全身に貼り付け、ほぼ裸で震えている男。
小さな紙風船のようなものを膨らませては、酸欠で目を回している老人。
何羽もの鳥を紐でつなぎ、それを頭上を飛ばせた結果フンまみれの青年。
(凄い! これで死者が出ないのなら、それはそれで奇跡だ!)
ルピナは驚愕しつつ、カメラとメモの手を止めない。
「先生、今日の挑戦者たちは気合が違いますね」
「素晴らしい。空へ挑むという文化が、これほど原始的熱狂を伴うとは」
(それは、原始的な投石器のせいでは?)
ふと思うところはあるが、口には出さずに全体をカメラに収める。
「見たまえルピナ君! 彼は鳥の生態を模倣すべく、排泄物との一体化を望んだのだ! 空への敬意から、鳥と同化したのだ」
「どうかしているようにしか見えないですよ。あれはちょっと近くで取材したくないなあ……ん?」
ルピナの視線が、集団から少し離れた木陰に吸い寄せられた。
男女が一組。
身体を寄せ合い、何やら深刻そうに向かい合っている。
「さて、そろそろインタビューも始めようかね。どの挑戦者に話を……」
「先生、あの二人はどうでしょうか?」
ルピナの指が、真っすぐ恋人たちを示す。
§
「エミラ、俺やっぱり無理な気がするんだ。棄権した方がいいんじゃないかって……」
男が青ざめた顔で俯きながら、女性に告げる。
「ガレン、大丈夫よ。あんなに練習したんだし。昨日だって言ってたじゃない『俺が空を見せてやる!』って」
エミラと呼ばれた女性は、優しい笑みを浮かべつつ、しっかり励ます。
それでも、ガレンは首を振る。
「い、いや……昨日は酔ってて。それに、これの練習だって。結局一度もまともに飛べなかったんだ」
ガレンは足元に視線を落とす。そこには、拙いがグライダーのようなものが置かれている。
「あれで飛べると思いますか?」
遠目に見ながら、ルピナが聞く。
「風さえつかめば、滑空くらいは可能かもしれないね。しかし、そんなことは問題ではない。たとえ飛べなくとも、チャレンジこそが……」
「行きましょう。極上の画を逃してはいけません」
語りたそうなローデンの言葉を遮って向かおうとした、その時。
「意気地なし!」
エミラの怒声が丘に響き、ガレンがビクンと身を跳ねさせた。
「先生、青春ドラマですよ、青春ドラマ。しかも痴話喧嘩。バズるやつ!」
「素晴らしい! 衝突こそが人間ドラマ、葛藤もまた文化のスパイスだよ!」
ローデンとルピナは、獲物に飛びかかる肉食獣の速さで恋人たちへ迫った。
「すみません、取材です! 今のは、飛ぶ前の大事なお話ですか?」
ルピナがカメラを向けると、ガレンは目を泳がせる。
「い、いや、あの、俺は……」
「待って!」
エミラが割って入る。
その瞳はどこか焦点が合わず、不思議な熱を宿していた。
そして不気味なほどの笑みを浮かべると、突然腰に差していた肉切り包丁のようなナイフを抜く。
(えっ……刃傷沙汰!? 放送できなくなるのは困る!)
ルピナが固唾を飲んだその直後――
エミラはためらいなく自身の長いポニーテールを根元から断ち切った。
ザンッ。
空気すら震える鋭い音が響いた。
「ガレン、これ」
エミラは切り落とした髪束を、まるで戦場で仲間に刀を託すように差し出す。
「これを持って飛んで、私の分身だから。これを持っていれば、二人で羽ばたいているのと同じでしょ?」
(……重量が増えるだけですよね?)
困惑するルピナをよそに、ガレンは震えた声で彼女の名を呼び、それを受け取る。
そして、切りたての髪の束に顔を埋めた。
(す、吸ってる?)
ちょっとばかり気持ちの悪いものを感じながらも、ルピナはカメラを止めない。
後で編集すればどうにでもなるとの判断だ。
数度の深呼吸の後にガレンは顔をあげると、カッと目を見開く。
「……見える! 俺には見えるぞ! この髪が風を切り裂くヴィジョンが!」
「ガレン! そうよ、あなたは風になるの!」
二人は髪の束を挟んで抱き合った。
完全に二人の世界である。
「ブラボー!」
ローデンが感極まって叫んだ。
「見たまえルピナ君! 愛は物理法則すら凌駕する! これぞ『愛の航空力学』! 美しい、これぞ美だよ!」
ローデンはハンカチで目元を拭いながら、激しく同意している。
一方、ルピナはカメラのピントを合わせながら、冷ややかな瞳でディスプレイを覗き込んだ。
(男の人って、単純だなぁ)
だが、画としては悪くない。狂気もまた、ドキュメンタリーの味なのだから。
極端にキモかった部分をカットすれば、いい感じになるだろう。
ルピナは無言のまま、熱に浮かされた二人を淡々と記録し続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます