第2話 神域にて目覚める
「……ん。」
眠っていた意識が目覚める。自分は──自分はいったい何をしていた?
──ああそうだ。自分は病に倒れ、死への恐怖から雪山に向かい、己の浅ましさから女神と刃を交えたのだったな。
それから──
(それから……どうなった?)
病で身体が限界を迎える中、最後に戦神に己の内を告白したことまでは覚えている。そこから自分は戦神に身を委ね、死を受けいれたはず──
なら、今いるこの場所はあの世か?
今自分はどうなっている?
「くっ……」
目を開け周囲を見渡す。視界は霞んでいるが、どうやらここは寝所──それも随分高貴な身分の方が住まうであろう部屋だった。
立ち上がって部屋の外にと身を起こそうとしたが、身体が岩になったかのように言うことをきかない。
さて、どうしたものか───
カタンッ
「ん──?」
「……目覚めておる…本当に目覚めておる!」
耳に飛び込んだ甲高い音、どうやら桶を床に落としたらしい。音の方に目をやれば、紅の着物を纏った少女がこちらに駆け寄ってきた。
「自分が誰かわかるか!?我のことは!?」
「う──ぁ──」
「ああ…そうよな。身体と同じで喉も動かんよな。大丈夫、今他の者を呼んでくるぞ!」
そう言って、少女はパタパタと足音を立てて襖の向こうに消えていった。
──よく分からないが、どうやらあの世というわけではないらしい。
それにしても──
(呼吸をする度付きまとっていた息苦しさを感じない。)
病によって息を吸うことすら苦痛になっていたはずなのに、今の自分はか細くもしっかりと呼吸することができていた。
(まさか病が癒えたのか?それにあの少女は───)
考えたいことは山ほどあるというのに、眠りから覚めたばかりだからか、思考もままならない。
やがて静真の意識は、再び眠りへと落ちていった。
***
「…ヒコナ様、静真の様子はどうですか?」
「ふむ…安心なさいヤエネ。ただ眠っているだけだ。目覚めたばかりで体力が戻ってないんだよ。」
「本当ですか!良かったぁ…」
静真が眠る布団の前で、先程の少女ともう1人の人物が話をしていた。
肩ほどまで伸びた翡翠色の髪を束ねた少年──しかし出で立ちとは裏腹に、巨大な神木が如き威容がその身からは滲み出ていた。
「しかし…あなたがこの少年を連れてきてから今日で100年になりますか。
「…その節はありがとうございました。ヒコナ様とオオクニヌシ様には、いくら感謝を捧げても足りませぬ。」
「顔を上げなさい。可愛い妹分に手を貸すくらいで、
深々と頭を下げる少女──ヤエネに、『ヒコナ』と呼ばれた少年はにこやかに言葉を返す。
「よし、少し早いがこのまま彼の治療を始めてしまおう。」
そう言って、パチンとヒコナが指を鳴らすと、どこからともなく手のひらほどの小人たちが現れる。
彼らは静真の布団へと集まり、手馴れた様子で彼から服を脱がせていった。
「ひ、ひひ、ヒコナ様!?いきなり裸になど、なぜそのような破廉恥なことを!」
「なぜって、湯治を行うからに決まっているでしょう。全く、あの方のご息女でありながら、ヤエネはいつまでたっても
「初心!?そ、そのようなことは…!」
「熟れた林檎のような赤い顔で言っても説得力はありませんよ。ああ…それともこの少年に特別な感情でもありましたか?」
「ひ、ヒコナ様のいじわる!湯治が終わるまで暇をいただきます!」
バタバタと慌てた様子で部屋から飛び出すヤエネ。さすがにからかいすぎたかとヒコナが苦笑いを浮かべていると、入れ違いで1人の男が部屋をのぞきこんできた。
「おい、ヤエのやつが部屋ぁ飛び出してったが、なんかあったのか?」
「少々からかいすぎまして。後で団子でもやって機嫌を取ることにしますよ。それよりも…少年が目覚めました。これから湯治を行います。」
「ほーう、もう目覚めたか…少なくとも1000年はかかると見込んでたが、思いのほかやりよるなぁ。」
「ヤエネがあなたに感謝してもしきれないと言っていましたよ。」
「はっ、ガキのくせに律儀なこって。ただそうさなぁ…おいヒコナ、この小僧今から湯に浸けるのだろ?」
「ええ、そうですが?」
「よし。ならばだ──」
そういうと、男は部屋にズカズカと上がり込み、静真の体を米俵のように担ぎあげた。
「俺に貸せ。俺も湯浴みをしたくなったのでな。」
「え、あっ、ちょっと!患者は丁重に扱いなさい!聞いてますか!オオクニヌシ!」
ヒコナの叫びも何処吹く風、静真を担いだ男──オオクニヌシは湯殿へと向かっていった。
***
『偉大なる建国神、
『ヤエ…てめぇその有様は…!』
夢を、見ている。
『お願い致します!どうか…どうか…!』
『この大馬鹿野郎…!ヒコナぁ!!』
『はい!』
降りしきる雨の中、自分を抱えたあの戦神が、神と思しき男に懇願している。
男の一声で動き出した少年が、自分をどこかへ運び込み、あの戦神は力を使い果たしたかのようにその場に膝をついた。
『ヒコナ様…その者を…お願い致します…』
『人の心配してる場合か!無茶やらかしやがって…!』
──これは、実際に起こったことだ。
なぜかは分からないが、その確信があった。
自分を生かしてくれたのは、あの戦神だったのだ。
ああ、でもなぜ───
なぜ、私などを助けてしまったのか───
***
「ん…ここは?」
体がなにかに揺られている感覚で静真は目覚めた。身を起こしてみると、ザバリと浸かっていた湯が波を打った。
「ここは…湯殿なのか?」
「おう、目が覚めたみてぇだな。」
広々とした湯船の対面、湯気の向こうから誰かが話しかけてきた。
そこに居たのは先程夢で見た男性、程よく焼けた肌と鍛え上げられた肉体、無造作にまとめられた長髪をたなびかせる伊達男──建国神『
「体は動くか、それならば重畳。わざわざ医神の湯に浸けた甲斐があった。」
「あなた…いや、御身が──」
「あぁ、いい、いい。堅苦しい挨拶なんざいらん、面倒くせぇ。その様子だと、俺が誰かは分かってるみてぇだしな。」
こくりと頷く静真。──八重祢刃神の時にも感じたが、神からの視線は、己の内を全て見透かされているようでなんだか落ち着かなかった。
「俺のことはオオクニヌシでいい。小僧、貴様の名は?」
「…神代静真。出羽国は鹿角郡、山間の村にて土地を守護する地侍の一族、その跡取り息子でございます。」
「出羽国…北国の出身か。道理で肌が雪のように白いわけだ。」
「北国…?」
「あー…その辺のことも後で教えてやる。今は気にするな。」
「し、承知しました…オオクニヌシ様、私からも1つよろしいですか?」
「なんだ?」
「眠っている間に夢を見ました。おそらくは私がここに運ばれた時のことを…あの戦神、八重祢刃神は今何処に居られるのですか?」
生かされた理由は分からずとも、助けてもらった相手には礼を尽くさねばなるまいと、静真はこれまでの生き方からそう考えていた。
「何処も何も、もう既に会っているだろう。」
「と、申しますと?」
「紅い着物を着た少女がおったろ。あれがヤエ──八重祢刃神だ。朦朧として覚えがないというのなら話は別だがな。」
「な──」
にわかには信じ難かった。自分が立ち会った八重祢刃神の出で立ちは、確実に元服を越えた齢だったはずだ。
神ゆえに姿を自在に変えられる、と言うのであれば納得もできるが、静真にはどうにもそれは違うという直感があった。
「次は俺が聞く番だな。お前、なぜヤエと立ち合った?」
「立ち合い……」
「まぁ事のあらましはヤエからも聞いとるがな。お前の口からも聞かせてもらおう。」
「…全ては私の浅ましさ故の行いでございます。」
そこから静真はあの時抱いた全てを語った。
死を恐れ、生にしがみつき、剣士としての存在証明を建前にして神へと刃を向けた、己の愚かさ、醜悪さを。
「これが全てでございます。」
「───」
「言葉を失われるのも無理ないことでしょう。それほどに、私の行いは許されざる───」
「ふんっ!」
「いっっっ!?!?」
頭蓋を砕かんばかりに走る衝撃──静真は俯き気味に話していたので気づいていなかったが、いつの間にか近づいてきたオオクニヌシに拳骨を落とされたのだ。
「い…いったいなぜ……」
「やかましいわこの大馬鹿者が。元服も迎えてねぇガキの分際でしゃらくせぇこと宣いやがって。真面目もここまでくりゃあ病気だぜ、まったく。」
あまりにも理不尽ではなかろうか──神を前にして理不尽も何もないかもしれんが、静真は心の中で小さな抗議をあげていた。
「そもそもだ、永遠を生きる神と違い、定命の人間が死を恐れるなど当たり前の話だ。そこに貴賎など存在せん。」
「し、しかし、神へ刃を向けたという不遜は……」
「中身がどうであれ、戦士の挑戦を戦神が不遜と取るものかよ。お前は戦士として命を燃やし、ヤエはそれに応えた。あの場にあったのはこの事実のみだ。」
「……」
「分かるか静真。お前は初めから何一つ罪など背負っておらんのだ。」
今度は静真が言葉を失った。己の行いは糾弾され、蔑まれることはあっても、このような──まるで父のように叱られるとは思いもしなかったからだ。
「ならば…ならばなぜ、あの戦神は私を生かしたのでしょうか…?」
「んなもん本人に聞け。察しはつくが、俺から語ることじゃねぇ。そろそろ上がるぞ。今の世のあり方といい、お前にゃ伝えねばならんことが山ほどある。」
風呂から上がり、湯前へと向かうオオクニヌシ。
叱られた時もそうだったが、静真は神のその背に父の面影を重ねていた。
***
「おや、戻りましたか。その様子だと湯治は上手くいったようですね。」
浴衣に着替え、オオクニヌシの後を追って広間に戻ると、ヒコナが茶を飲みながら2人を出迎えた。
「お心遣い、感謝申し上げます。差し出がましいようですが、我が命をお救いいただいた御身の名をお聞かせ願えますか?」
「あはは!真面目な子は好ましいですが、少々固すぎますね。私の名は『
またもや言葉遣いを笑われた静真。馬鹿にされているわけではないのは分かっているのだが、自分が固すぎるのか、この二神が特別おおらかなのか、そこはまだ測りかねていた。
「ヒコナ、静真のやつが眠っていた間のことを教えてやれ。なるべくかいつまんでな。」
「わかりまし──あ!また昼間から酒など飲んで!あんまりだらしないと、またスセリビメ様にドヤされますよ!」
「いいだろ別に!つーかなんでスセリのやつが出てくるだよ!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二柱の神。長年の連れ添いどうしのやり取りは──どこまでも人間臭さを感じさせるものだった。
「…ふふっ。」
「おいこら何笑ってんだ静真!」
「きっとあなたのだらしない姿に呆れてしまったのですよオオクニヌシ。」
「い、いえ違います!いや、違わないかもしれませんが…」
「ほーうなんだ申してみよ。神は寛大である故なぁ、今ならまた拳骨で許してやろうぞ!」
「うわっ!頭を撫で回さないでください!その、お2人があまりにも人間に似ていると思ってしまって……」
「あぁ、そういう事ですか。逆ですよ静真。神が人に似ているのではなく、人が神に似ているのです。」
「人が、神に似ている?」
「そうだとも。ちょうどいい、かの月の神に比べれば拙いものですが、少し授業を行いましょうか。」
するとヒコナは懐から眼鏡を取りだし、正座をして静真に向き直った。
「さて、静真は世にいう日本書紀はどこまで学んでいますか?」
「えっと、大まかな流れであれば。天地開闢よりこの世は始まり、神産み、国造りを経て天孫降臨へと至り、そこから人の世は始まった、と。」
「うん、大筋はよく理解していますね。あえて補足するとすれば、天孫降臨以降に始まったのは『秩序ある人の世』と覚えると良いでしょう。人間そのものは国産みの頃より存在していましたからね。」
向かい合い、先達に教えを賜る。実家では父母から大まかな教育を受け、あとは書を読むことでしか学ぶことのなかった静真だが──もし藩校などに通っていればこのように教えを受けていたのだろうかと、何となく考えていた。
「おいおい、俺たちの国造りはついでかよ!」
「ハイハイ、そこな偉大なる酔っ払いのことは置いといて、話を進めましょう。次は先程述べた『人が神に似ている理由』と今の世の在り方をお教えします。」
「この話が終われば、お2人から直接国造りの話もお聞きしたいです!」
静真の学ぶ姿勢にヒコナがふっと微笑む。真面目な性格もあって学ぶことが好きなのか、静真の表情はとても生き生きとしたものになっていた。
「さて、そもそも人間とは、遥かなる昔にイザナギ、イザナミの二神によって国産みが成される際、神に似せて創られた生き物であるとされています。」
「確か、書物には人の正確な誕生時期は描かれていませんでしたよね?」
「ええ、こればかりは我々からしてもかの二神からの言い伝えでしか知りえぬこと。書物に記されずとも致し方ないことでしょう。」
「一説によりゃあ、あのイザナギ、イザナミをして人間の創造は全くの偶然だったなんて話もあるぐらいだしな。」
「偶然…ですか。」
「おうよ、だが偶然にしろ必然にしろ、お前たちは神の手によって生まれた。ならばほれ、子が親に似るのは当然の摂理であろうよ。」
この言葉には静真も目を丸くした。オオクニヌシを侮ったことなどないが、先程までヤジを飛ばしていた姿から考えると、やはりかの者も神なのだと改めて認識させられた。
「子が親に似るのと同義。分かりやすく、かつ核心を突いた言葉ですね。オオクニヌシにしてはいいことを言う。」
「そうであろう、そうであろう!もっと讃えるがいいぞ!」
「すぐ調子に乗ることもなければ、さらに偉大な神として祀られたでしょうに。少しは静真の真面目さを見習ってはどうですか?」
「神がそのあり方を変えられるものかよ。生まれた時より完成し、あるがままに生きるのが神。お前とてその一柱であろうが。」
「ふふ、それもそうですね。では次、あなたが眠っている間の世の変化についてです。ただしこれは、少しばかりあなたには重くのしかかる話だということを念頭に置いてください。」
ゴクリ、と喉が音を立てる。これまでとは違うヒコナの真剣な空気と前置きに静真は居住まいを正して続く言葉を待った。
「まずは前提から。あなたがヤエネの手でここに運び込まれ、眠りについてから…実に、100年の時が過ぎています。」
「────は?」
間の抜けた声が漏れてしまった。
人生は50年も生きれば十分な長寿とされている。だが100年──人の生を2度謳歌してようやく届くかという時の流れの中を、己は眠っていた。
実感がわかない。だが──その時の流れで、己がどれほど遠い場所に押し流されたのかは、嫌でも理解できた。
「ヒコナ様…それでは、私の父母は…村の者たちは…もう…」
「………」
沈黙が答えだった。
いや、100年の時が過ぎたと聞いた時には理解していたはずだ。それでも、齢16の少年にとって、この事実はあまりに重すぎた。
「……続けますね。あなたが眠りについた直後に、この国はとても大きな転換点を迎えました。これが後の世に『島原の乱』と呼ばれる人界の存亡をかけた大戦です。」
淡々と話を続けるヒコナ。静真にとってはそれが何よりありがたかった。変に気など遣われてしまえば、受け止めたものの重さに押し潰されそうになっていたからだ。
そしてここから語られる静真にとっての『空白の100年』では、そのような感傷など押し流すにあまりあるほど、壮大で、壮絶な歴史が紡がれていた。
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