八重祈刃譚(やえきじんたん)〜神を斬った剣士、半神となり人の世を巡る旅に出る〜

はたやま

序章 旅の始まり

第1話 雪華に散る

「はぁ…はぁ…」


 視界が白で埋まる山道を一人の男が歩いている。


 この辺りでは冬季に吹雪ことなど珍しくもない。しかし、この日はそれに慣れた村人ですらも命の危機を感じるほどの猛吹雪。ましてやこのような日に山道に向かうなど、命を捨てに行くことと同義であった。


「はぁ…っ……がはっ…」


 口元に添えた手が赤く染まる。少し足を止め、息を整え、また歩き出す。手を染めた赤を、雪の上にも落としながら。


「ふぅっ…もう持たんな…急がねば…」


 男──神代 静真かみしろ しずまは病に犯されていた。


 神代家は山間にある村を守る古い地侍の家系であった。村人ともに畑で汗を流し、危機があれば剣を取る。心優しい現当主と、それを慕う村人たちが助け合い、貧しいながらも笑いの絶えぬ温かな生活を営んできた。


 そんな中、神代家に生まれたのが静真だ。彼は幼き頃から剣の鍛錬に励み、その腕は元服以前より、山に現れた魔性の群れをたった一人で斬り伏せるほどであった。


 やがて静真の剣才は都や江戸にまで轟き、齢16にして幕府へ士官の沙汰が下った。


 この沙汰には誰よりも静真が喜び、自分を育てた両親や、慕ってくれた村人たちへ恩返しができると思っていた。


 ───そう、思っていた。だがこの幸せは長くは続かなかった。


 村で過ごす最後の秋、いつものように稽古に励む静真の体に異変が起こった。


『っ!?ゲホッ…ガハッ……!』


『静真!?おい!静真!』


 その病は、罹る者はそう多くないが、その全てが死を迎える不治のもの。両親や村の者があらゆる手を尽くしたが、病を癒す方法は終ぞ見つからなかった。


『静真…すまぬ!不甲斐ない父を、どうか許してくれ…!』


『ハハ…おかしな事を、申されるな父上…不甲斐ないのは私の方。士官の話も決まったというのに…なんの恩も返せぬまま命尽きるとは…親不孝者の息子を、どうかお許しください…』


『滅多なことを言うものではありません…!お前は母や父上、村の者たちにこれ以上ないほどに尽くしてくれました!恩を返せぬ不孝者は…私たちの方です…』


『…勿体ないお言葉、痛み入ります母上。しかし…やはり何も残せぬままというのは、少々口惜しい…』


『静真、何をするのだ!?』


『起き上がってはなりません!安静になさい…!』


 震える身体を布団から起こし、冷や汗を滲ませながら立ち上がる静真。その目には、静かに覚悟の炎が灯っていた。


『村人たちの噂を耳にしました…この村を見下ろす山には悪神が住まうと。母上、出立の支度を手伝ってくだされ。これより…かの悪神を討ち取って参ります。』


 そうして静真は村を発った。両親や村人は何度も引き留められ、最後には涙ながらに見送られながら。


 ***


 霞む視界の中で、ただ歩を進める。もはや手足の感覚もなくなり、自分が本当に生きているのかどうかも分からなくなってきた。


 だがまぁ…まだ足は動く。


 もはや死んでいようと、生きていようと、目的を果たすまでこの身が止まることは無い。


 悪神の存在──ただの噂であればそれで良し。しかし本当に居るのであれば──最後に、村の民の不安ぐらいは取り除いて逝きたい。


 でなければ、あまりにも───


「はぁっ…はぁっ……これは…?」


 気づけば山頂までたどり着いていた。そこには古びた社が雪に埋もれかけており、音まで凍りついたかのような静けさがあった。


(雪は止まぬが、風はぱたりと凪いでいる…ここは一体…)


「なんだ、このような吹雪の中を訪ねてくる者がおるとはのう。」


「つ!?」


 突如耳に入る女の声に思わず身構える。目を向けると社の前──先程まで何も無かった場所に年若い女が立っていた。


「ほう…誰かと思えば、神代のせがれか。お主は確か病に伏せっていたと思うたが。」


「…なぜ、私のことを知っている?」


「もちろん知っているさ。我はずうっとあの村を見守っておったからのう。」


 巫女装束に紅の鎧を合わせた出で立ち、吸い込まれそうになるほど艶やかな漆黒の長髪──何よりもその身から発する尋常ならざる気配が、この女の正体を雄弁に物語っていた。


「貴方がこの山に住まうという悪神か?」


「悪神?……あっはっは!そうかそうか、村では今我をそのように言い伝えておるのか!」


 心底愉快そうに笑う女。予想外の反応に静真は困惑しきりになっていた。


「無理もない。貧しさから祭りも絶えて久しいからな。残念だが、我はお主が思うような悪神ではないよ。」


「…ならば御身は如何なる神か?」


「我が名は『八重袮刃神やえねのはがみ』この地に奉られし戦神が一柱である。」


 なんということだ。村を脅かすものと思っていた存在は、本来崇めるべき戦神であったとは。


 悪神はいなかったという事実に安堵する反面、静真の心にはある種の虚無感のようなものが生まれていた。


「我からも問おう。お主は如何なる目的でこの社へと参った?」


「…まずは、これまでの非礼をどうかお許しください。」


 静真は時折咳き込みながらも、ここへ来た目的をゆっくりと語った。


 病によりこの命はもう長くはないこと、死ぬ前に父母や村人たちになにか恩を返したい、その一心でここへ来たことを。


「これまで何もなかったとはいえ、いずれ村を脅かす悪神ならば…せめてこの命に変えても退けてみせようと…そう思っていたのです。」


「……なるほどのう。だがここには悪神などおらぬ。お主が我をそう見立て、襲いかかるというのなら話は別であるが。」


「いいえ…御身は村を陰ながら見守る正しき神でありますれば…私にそのような不遜を働く道理はございませぬ。」


「……何か、他に望みはないのか?」


「望み、ですか…」


「我は戦神、福も実りももたらさず、ただ戦を収めるしか能のない身だが、お主の望みをなにか聞き届けてやれるかもしれぬぞ?」


「……」


 望み──病により士官の夢も絶たれ、討つべき悪もここにはいない。


 そんな空虚な自分に残された望みもの──


「……八重袮刃神よ…一つだけ、望みがありまする。」


「よい、申してみよ。」


「どうか、一人の剣士として、私と立ち合っていただきたい。」


 もとより自分にはこれしか能がない。


 たった十数年の拙き道のりではあるが、それが武の化身たる戦神にどこまで通じるか──それを知りたいと思ったのだ。


「構わんが、挑むというのなら…どの道命はないぞ?」


「元より明日もしれぬ身…生きて帰ることなど望みませぬ。」


「…ならば、構えるがいい。」


 腰の刀に手をかける。間合いまでは互いに一歩遠い。踏み込んだ瞬間が、開戦の合図だった。


 ───社の屋根より、雪が崩れ落ちた。


「せぇやぁ!!!」


「はぁっ!!!」


 キィン───!!!


 抜刀と同時に互いに踏み込む。唐竹と一文字が交錯し、甲高い音を上げた。


「はぁああ!!!」


「ふんっ!」


 刃と刃がぶつかり合い、幾度も火花を散らす。


 ──戦神は驚嘆していた。


 人の身で、病に犯されながらこの剣の冴え。万全であったのならば、一体どれ程の──


(いや違うな…命を燃やし尽くすかのような太刀筋…最後ゆえの輝きということか。)


 ならば最上の敬意をもってこの剣士に示そう。戦神の太刀、その何たるかを。


「せぇいっ!!」


「ぐあっ!?」


 鍔迫り合いの状況から深く踏み込み、脚力を天を衝くが如き突進力に変えて静真を弾き飛ばす。


 すかさず納刀、宙に浮く静真の着地を仕留めるために、深く腰を落とし居合いの構えを取る。


「終わりだ!」


「──っ」


 着地と同時に戦神が突撃、渾身の一閃が静真の胴を薙ぐべく放たれた。


 ザンッ─────


「───」


「───」


 両者の影が交錯し、鮮血が舞う。


 静真の体は、降り積もる雪の上に沈んだ。


「……くっ。」


 ───


 交錯する直前、戦神は確かに見た。


 宙を舞ったまま納刀し、着地と同時に戦神の居合いを超える速さの一太刀を静真が放つのを。


「…一念鬼神に通ずとは、よく言ったものですな。人の身でも…魂を込めた一刀であれば…神にも届くことがあるらしい。」


「……ああ、実に見事だった。」


 仰向けになり、曇天を見上げる静真──その口元は赤く染まっていた。


 元より相手は正真正銘の神の一柱。たとえ太刀が届こうとも、人が死を与えられるはずもない。戦神の言うとおり、勝負の後に静真の終わりは定まっていたのだ。


「感謝します…八重袮刃神よ。これで、心置き無く逝くことができます…」


「……一つ聞かせろ。村のために悪神を討とうという思い、あれはであるな?」


「……」


「いや、正確にはあの思いも真ではある。だがそれ以上の願いを、お前は村のためと言い押し殺した……答えよ静真!その胸中に、如何なる願いを隠したか!」


「……やはり、神を前に隠し事など…通じるはずもない、か。」


 ああ──なんと慈悲深き神か。手前勝手な願いを叶えてくれたばかりか、最後の後悔までも雪いでくれようとは。


 目の前の戦神に心からの感謝を捧げながら、静真は掠れた声で言葉を紡いだ。


「御身の言う通り…村のために、という思いにも嘘はありませぬ。ですが、それ以上に…私は無為に死ぬことが…ただ怖かったのです。」


 いつの間にか、静真の頬を涙が伝っていた。


「父母や村人に恩を返せぬことよりも…この世に生きた証を残せず死ぬことが…いずれ誰からも忘れ去られてしまうのが恐ろしくて仕方なかった…!」


 それは死に際に生まれた最後の後悔──『生への執着』に対する血を吐くような叫びだった。


「村人から悪神の噂を聞いた時も…これを討てばこの病から解放されるのではと…剣士として、などといいながら、そのような浅ましき考えで、私は御身に刃を向けてしまった…!」


「……」


「これが全てです…赦しを願うつもりはありませぬ。この身の処遇は…どうぞ御心のままに…」


 もはや一片の後悔もない。たとえ地獄に落ちようとも、この戦神に裁かれるのであれば本望だと、静真はその瞳を伏して、神からの沙汰を待った。


「……呆れた男よ。死を恐れ、生を願うは人として当然の想いであろうに。」


「……」


「ただまぁそうさな…神に対して偽りを述べ、刃を向けたことへの報いは与えねばならぬ。」


 戦神がそう言うと、影が重なった。数瞬の間二人の距離は無くなり、離れた時には戦神の口元は静真と同じ赤に染まっていた。


「これよりお主は我の半身として永らえる。我と共に生き、いつの日かその手で無念を晴らすがよい。」


「───」


 戦神は静真の体を抱え、雪に呑まれるように何処かへと去っていった。


 ***


 その日の夜、静真の両親は同じ夢を見た。


 巫女装束の上に紅の鎧を纏った美しき女がこう告げたのだ。


『誇るがいい。お主らの息子はその命にかえて、確かに悪神を討ち果たした。』


 その後、村の者にこのことを伝え、総出で静真の亡骸を探すも、終ぞそれが見つかることはなかった。


 そして両親と村の者は、静真のことを忘れぬよう、『悪神退治の英雄』として後世まで語り継いだそうな。

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