第9話 陰の気配
沼乃探偵事務所――。
夜の布袋エリアに、ガラスが砕ける音と悲鳴が響いた。
部屋の中では、あかりとフレイヤが荒い息をつきながら立っている。
床にはひっくり返った椅子、割れた照明、血のついたガラス片。
そこには鍛冶山錬斗が、顔から血を流して倒れていた。
「おー、意外とやるね地団駄団。お仲間は逃げ帰ったのに、大した度胸じゃないの」
百々島鮫明は笑っていた。
金髪を揺らし、ナイフを指の間でくるくると回す。
その背後には、彼の部下――風マナ使いたちが4人、あかりとフレイヤを羽交い絞めにしている。
「百々島さん……勘弁しちゃ、もらえませんか? おれも地団駄団なんで……手出されると、うちも黙っちゃいられないです……」
「地団駄団? 知らねえよ。おれは風の四天王なんだ、おれがここじゃ法律なの」
百々島はそう言って、ナイフの血をいやらしくぬぐう。
「そうかよ……じゃあ、さっさとおれをやったらどうだ?」
「あー。お前いたぶるのも、飽きてきたわ。
あの馬尾とかいうやつ、おれさまとの約束を破って、地団駄団よこしてきたしな……そろそろメインディッシュ行くか」
その声には、人を殺す前の楽しげな色があった。
「それじゃあ、この生意気なギャルから行くか……」
あかりは思わず後ずさりするが、百々島の部下に押し戻されて彼の手に捕まる。
「あんた、最低のマナ使いだね」
あかりは涙目で、かろうじて百々島に言った。
「ああ、おれ気の強い女は好きだぜ。そんな女が、『どうか殺してください』って命乞いするのは、もっと好きだぜ」
百々島がナイフを振りかぶる。
「わたしを先にやれ、このクソ野郎!」
フレイヤが叫んだが、すぐに百々島の部下に腹を殴られて黙らされる。
「恨むならよ……お前らより、風の四天王の座を選んだ馬尾妖霧を恨めや!」
あかりが目をぎゅっと閉じた瞬間――空気が、震えた。
思わず目を開けた。
百々島の部下4人が、文字通り宙を舞っていた。
そして彼らは白目をむいたまま、地面に叩きつけられる。
それと同時に風がうなりをあげて渦を巻き、ナイフが不快な金属音を立てて壁に突き刺さった。
フレイヤは体の自由がきくとわかると、すぐに鍛冶山の方に駆け寄った。
「鍛冶山さん、大丈夫?!」
「何があったか知らんが……とりあえず、逃げた方がいいらしいぞ」
鍛冶山は顔の傷を押さえながら、あごで奥をしゃくった。
そこにはあかりとフレイヤが打ち負かした、あの少年――馬尾妖霧が立っていた。
「こ、こいつ! いつの間に!?」
予想外の強さに驚いたのか、百々島はすぐにあかりの細いのど元に替えのナイフを突き立てた。
「ようやくおでましか、妖霧さんよお。こいつがどうなってもいいのか? ああ?」
百々島は小者らしく、あかりを盾にして妖霧を脅した。
「それにしてもよ、本当にここに来るなんてバカだなお前。
てめえは、こいつらの何なんだよ?」
「おれはこの事務所の……関係者だよ」
妖霧は、ようやくその答えを絞り出した。
「妖霧くん……」
彼の言葉に、あかりは思わず、目を潤ませた。
「まあ何だっていいや。このおれ百々島は、風の四天王だ。
おれのスピードは、学園都市で一番だ……誰も勝てやしない。お前だってな」
百々島はにやっと笑う。
「おれはな、1秒で16回パンチできる最強のスピードを誇るんだ。
つまりよ……お前がこの女を助けようと動いたら、おれはこの女を16回切り刻むことができる……顔も、太ももも、おっぱいもな!」
百々島は額から汗を流しながら、下品な挑発を繰り返した。
しかし妖霧は身じろぎ一つしない……冷たい目で、彼をにらんでいるだけだ。
「わかったらよ……そこから髪一本動くんじゃねえぞ!」
百々島はあかりの背を押すようにして、ナイフを手にぐんぐんと近づいて来る。
どうする気なのかは、誰が見ても明らかだ……百々島は、あかりを盾にして動けない妖霧をナイフで刺すつもりだ。
いくら最強の風マナ使いの妖霧でも、人質を助けるために動けないなら刺されるしかない――そういうことなのだ!
「きみ! わたしのことはいいから! 早くこんなやつを倒して!」
そんな結末が嫌になって、あかりは叫んだ。
「うるせえ女だ……頭きた、やっぱりぶっ殺してやる!」
百々島がナイフを上に振りかぶると――次の瞬間、妖霧は二人の目の前から姿を消していた。
その場にいた全員が凍り付く――陰の気配が、発動したのだ。
百々島はとっさにナイフを後ろに振る。しかし、そこにも妖霧はいなかった。
「は!?」
風の衝撃波――いや違う、これは拳と肘、膝の連撃だ。
百々島はそのすべてを、ナイフを持った右手、そして顔面に食らった。
ナイフが派手に床に転がっていき、それを鍛冶山が抱えるようにしてキャッチした。
「く、くそが! こうなりゃ、殴り殺してやる!」
百々島が立ち上がり、風マナ体術の構えを見せる――しかしそれは、あまりにも遅すぎた。
百々島の前歯が、弧を描いて飛んでいく。
妖霧の強烈なアッパーが、彼のあごに直撃したのだ。
さらに今度は右の脇腹、顔、そして金的。痛みで後ろに逃げたが、それは無意味だった。
もう目の前に、妖霧が立ちふさがっていた。
「百々島……お前、1秒で16回殴ることができるらしいな」
妖霧はにっと笑った。
「ならおれは……お前を体感0秒で1発殴ることができる」
百々島は反射的にカウンターを放つが、誰もいない。
風が、四方八方から吹きつけてくる。そのたびに、猛烈な痛みが全身を襲う。
まるで
百々島はいよいよ恐怖で悲鳴をあげ、床を這いつくばって逃げた。しかし今度は顔面を蹴り上げられ、その場に倒れる。
自分が――この百々島鮫明が、最速のはずだ。認められない……何が体感0秒で1発殴れるだとぉ!
「死ね、馬尾!!」
百々島は悲鳴に似た絶叫で、風魔法を全力で放った。
そして激しい突風が、部屋中を切り裂く……
書類やガラス片が宙に舞い、床がめくれ上がる。
その中で、妖霧の姿がわずかに見えた――だがもう遅い。
百々島の胸に、見えない衝撃波が叩き込まれた。
空気が爆ぜ、百々島の身体がくの字に折れて吹き飛ぶ。
そして壁に叩きつけられ――そのままずるずると、床に倒れた。
あとには――恐ろしいほどの静寂が、漂っていた。
「えっと、あの、その……」
妖霧は棒立ちしたまま、セリフを絞り出すように口にした。
「自分のせいで……人さまに迷惑をかけるは嫌いなんだよ」
「やるじゃん! さすがあたしが見込んだ、助手候補!」
あかりは、にっと笑って妖霧に抱き着いた。
「ありがとう! 助けにきてくれて!」
「……きゅー」
妖霧は顔を真っ赤にして――あかりにされるがままになってしまった。
フレイヤはそんな二人を見てやれやれと両肩をすくめ、鍛治山は心の底から安堵のため息を漏らすのだった。
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