罪と花束

差し水醤油

第一話 覚えていない君へ

 その日は春の空気に、まだ冬の匂いが混ざっていた。


 桜の花びらが窓の外で舞う中――


咲梨第一高等学校さくりだいいちこうとうがっこう」の1-3組では、


 黒髪の三白眼の少年――神原蓮かんばられんが座っていた。




 ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、


 担任の上山かみやまが教室に入ってくる。




「お前ら、高校生活には慣れたか?


 反応は様々だと思うが、今日は大事な話がある。」




 その言葉に、生徒たちは少しざわついた。




 上山が手を合わせ、「パン」と音を鳴らす。


 瞬間、教室が静まり返る。




「はい、静かに。


 実は今日から1-3に新しい仲間が増えます。――入って。」




 上山がドアに合図を送る。


 ゆっくりと少女が教室に入ってきた。




 その顔に、蓮は見覚えがあった。


 確証はない――けれど、どこかで見たことのある姿。




 少女はゆっくりと口を開く。




「えっと……天野笛菜あまのてきなです。


 よろしくお願いします……」




 笛菜はそう言って、そっと微笑んだ。


 蓮の口が、開いたまま塞がらない。




 歪む視界、響く声。


 そして、思わず呟く。




「嘘……だろ……」




 目の前の少女が、過去の亡霊に見えた。








 笛菜との出会いは、中学時代。




 笛菜の背中を軽く叩きながら、蓮は笑って言った。




「よっ、“”!」




 笛菜のあだ名は「片テキ」。


“片親のてきな”を略した、最低の呼び名だった。




 の少年――神原蓮。


 彼は笛菜の筆箱をわざと床に落とし、


 そのまま踏みつけた。




 ペン先が床を転がる音だけが響いた。


 誰も拾わない。俺たちは笑っていた。




「天野笛菜」。


 シャープペンの芯を一本ずつ使い切るような子だった。


 いつも同じ髪留めをつけて、誰よりも静かにいた。




 女子の陰口から始まり、


 やがて蓮を中心とする男子グループが主犯となっていった。




 ――中学2年の夏の終わり。


 笛菜は、転校した。




 当時の担任は「非常に悲しい出来事です」とだけ言った。


 見て見ぬふりをしていたくせに。








「笛菜は、そこの席に座ってくれ。」


 上山が指示を出す。


「お前ら、仲良くするようにな。」




 蓮の隣を通り過ぎた笛菜は、どこか複雑な表情を浮かべていた。




 新しい環境への不安――


 それとも、別の感情だろうか。




 そこからの数週間、蓮はできるだけ関わらないようにしていた。


 気を使って、距離をとって、


 ただ“”過ごした。




 そんなある日のホームルーム。




 上山が静かに告げる。




「……笛菜が交通事故に遭った。


 今は入院していて、命に別状はないようだ。


 よかったら、見舞いに行ってやってくれ。」




 胸がうるさかった。


 ただ、うるさかった。




 放課後。




 家に帰っても、何も手につかなかった。


 花屋で花束を買う手が、震えていた。


 病院を前にして帰ろうとした自分を押し殺して、


 今ここにいる。




 病室の扉に手をかけた瞬間、


 鼓動が速くなるのを感じた。


 呼吸が荒くなり、汗が噴き出す。




 小さく呟く。




「……笛菜は、もっとつらかったはずだ……」




 深呼吸をひとつして、意を決して扉を開ける。




 そこには、ベッドの上で外を見ている笛菜の姿があった。


 笛菜は振り返り、微笑む。




「えーっと……神原くん?


 お見舞いに来てくれたの?ありがとう!」




 蓮は呆気にとられた。


 罵声を浴び、殴られる覚悟で来たのに――拍子抜けだ。




「神原くん? 大丈夫?」




 言葉が出なかった。


 それでも言葉を選び、問いかける。




「……天野さん。中学校のこと、憶えてないの?」




 笛菜は首をかしげる。




「中学校? ごめん……事故で頭を打っちゃって。


 中学校のことだけ、覚えてないの。」




 会話が止まる。


 しかし、時間は止まらない。




「あ! でも覚えてることもあってね、


 神原くん、たしか金髪だったでしょ?」




 蓮はその言葉に驚き、声にしようとしたが、


 弱々しく頷くことしかできなかった。




「今は黒髪なんだね。今の方が似合ってると思うよ。」




「中学校の時、何があったか覚えてないけど……


 神原くんのこと、少し怖かった気がするの。


 ……どうしてかはわからないけどね。」




 そして笛菜は花束を指さす。




「その花束、買ってくれたの? ありがとう。


 高かったでしょ? そこまでしてくれなくていいのに。」




 言葉を失った蓮を横目に、笛菜は穏やかに続ける。




「中学校の時、神原くんとはきっと仲良かったのかな?


 だって、こんな花束持ってお見舞いに来てくれるなんて……


 私、嬉しいよ。」




 その瞳は笑顔のまま、どこか潤んでいた。




 蓮は複雑な笑みを浮かべ、震える声で言った。




「……えっと、俺……帰るよ。バイトがあって……」




 笛菜は少し悲しそうに顔を曇らせた。




「もう行っちゃうの? また、会える?」




 蓮は小さく呟く。




「……うん。」




 その声は冷たく、震えていた。




 病室を出た時、笛菜は微笑んでいた。




 冷たい春風が吹く。




「冷たい……」




 蓮は白い声を吐き出した。

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