[10]①うつむく怪物②壊れかけたブレスレット 360min

 ハイカラで色めく街々。

 行き交う若者は珍妙な洋服に袖を通し、欧米人の密かな侵略に気色の悪さを感じながら道を往く。そうして路面を走る電車が鐘を鳴らしたと思えば、男が何食わぬ顔で帽子を押さえ飛び乗った。

 庶民の嗜好に関し、最早私が思うところは何もない。

 ため息を三つほど重ねると……着いた。この居酒屋が今日、私が小学校以来の旧知と再会を果たす場だ。


「おぉ~よく来たな。まあ座れよ」

 赤く装飾された店内に、黒い背広を来た男が手招きする。

「飲み屋まで背広か。随分と芯まで染まったようで」

「開口一番に皮肉かよ。ああ、やだやだ。上流のパパといえどプライドまでこうも高いとありゃ、娘ちゃんの気苦労が窺い知れるぜ」

 再会こそ三十数年ぶりだが、この男とは卒業以来定期的に文通を行ってきた仲だ。この程度のやり取りは挨拶の範疇に収まる。

「そうだ、娘ちゃんは元気か? ……お前の奥さんが亡くなってから、家政婦が何人も入れ替わり立ち替わりらしいが」

 背広が示したビール瓶を押し退け、仲居に熱燗を注文する。

「その件だが——。実は入院しているんだ。〝結核〟でな」

 口に運ばんとする、背広の洋杯がはたと止まる。

 飄々とした先ほどの態度とは一変し、剣吞な雰囲気を纏ったまま徐に洋杯を置いた。

「お前さん……。ああ、そういうことかよ……」

「言いたいことがあるならはっきり言え」

 ——天秤の怪物。

 ふと、背広が呟いた。

「四十五歳という史上最年少で横浜裁判所の裁判長を務める。しかし当初期待された敏腕とは裏腹に、横領と被告人との裏取引による裁定の酌量を繰り返す……。酷い言われようだよな、オイ」

「見たのか、雑誌を……」

 もう見なくても耳に入ってくる、と背広はビールを一気に呷る。

「それでどうする。俺に道徳や法の精神について説法でもするつもりか?」

「悪い冗談はよせよ。他人様に説法するほど俺は尊大な人間じゃねぇ」

 こちらに目を合わせず、背広が鱈の身をほぐし始める。

「ただ会って、事情が知りたかっただけだ。お前さん程の人間が、なぜこんな馬鹿なことを始めたのかってな」

「まあ——」と背広が細い目だけを鋭くこちらへやる。

「必要なんだろ。娘の治療費が」

 鱈を頬張り、背広が鋭い眼を綻ばせる。お前も食うか、と取り分けられた鱈は素直に受け取った。

「ドイツに渡って治療を受けさせてやらなければならない。ざっと二千円といったところか。……もう時間がない」

「お前さんの給与でも五、六年は掛かりそうだな。そりゃあ焦るだろう。いや、焦って当然だ」

 背広がポケットから紙切れを取り出し、スラスラと書き始める。

 受け取れ、と手渡された紙切れ——否、小切手に千円の文字。

「どういうつもりだ?」

「俺が出せるギリギリの額だ。……勘違いするな、これは同情なんかじゃねぇ。手向けの花代わりだ」

 拒絶の返事代わりに小切手を背広の手前に押し返す。

 まあ聞けよ、と肩をすくめるように背広は口を開いた。

「お前さんはきっと、死ぬまで悪夢にうなされることになる。……呪いだよ。床に就けば犠牲になった被害者の悲鳴が鼓膜を破り、憤怒が目を焼くだろう。そして鼻は——」

 深いため息を落とし、背広が再び細い目を尖らせる。

「ワタ、何人抜いた」

「五人だ。恐らく、次で六人目になる……」

「……お前さんは有用で高貴な人間だ。今後法廷に立つことはなくとも、恐らく罪を逃れ、どこかでまた公然と職に就く。だが無用で下賤と切り捨てた罪人達も、法廷を抜ければ必要とする誰かが居る。——お前さんが娘を愛するようにな」

「承知の上だ」

 背広がそっと箸を置く。鱈の身はまだ尾っぽが少し残されていた。

「だから受け取れ。お前さんが半端に折れることがないように、俺も一つ乗ってやるってんだ。……なるもんじゃねぇな、親父ってのはさ」

「そういうお前の家族はいいのか」

 ちょいと夜が短くなるだけだ、と背広は煙草に火を灯す。

「分かったら受け取れ。言ったろ、娘ちゃんに苦労させるなって」

 それでもこちらが躊躇する心情を酌んだのだろう、背広は立ち上がり、帯に小切手を差し込んできた。

「……恩に着る」

「少し夜風に当たろう。しみったれた空気は嫌いなんでな」

 背広がツケにする形で会計を済ませ、二人店を出た。

 夕日はすっかり沈み、ガス灯が忌々しく街道を照らしている。

「なあ、覚えてるか。お前さんと俺がガキだった頃の話だ」

 背広がポケットからタバコを取り出し、差し出す。

 吸った経験はおろか、吸おうと考えたことすらない。だが、今更拒む理由も見当たらなかった。

「教室の隅で書物を読み漁ってたお前さんを、俺が毎日いじめてたよな」

 顔を寄せ、火種を譲り受ける。

 口元の笑みに反して、細い目はやはり温もりを感じない。

「そんな中、たった一人の女の子が見る度に俺を𠮟りつけ、お前さんに強くなれと檄を飛ばしてた」

「……おしずか。卒業間際になって、両親の都合だかで田舎に引っ越して行ったな」

「ああ。それが今じゃどうだ。俺は立法の役人に、お前さんは司法の権威になった」

「——苦いな。吸えたものじゃない」

 タバコを背広に押し付けると、苦笑するように金属製の小箱に収めた。

「まあ、人生何があるのか分からんってこった。当時も俺はてっきり、お前さんとおしずが結ばれるものとばかり思ってたよ」

 突然だった。腫れた顔を不細工な笑顔で繕いながら、「田舎に越す」と。

 そうして贈られた木製の腕輪の湿り気は、今でも鮮明に覚えている。

「生い茂った茨の道でも、進み続ければ開けることだってある。逆もまた然り、だ」

 背広がこちらの肩に手を掛ける。振り払おうと肩に力を入れたところ、ひょいと背広が身を翻した。

「迎えだ。……立ち止まるなよ、地獄の釜が開くまで」

 そうして煙を立ち上げながら去りゆく車を、苦みが払拭されるまで見送っていた。


「書類のご確認をお願いいたします」

 背広と会食してから約一週間。事務員に手渡された訴追状その他一式を一読する。

 普段と変わらぬ仕事。ただし、今回で全てが終わる。このさもしい罪人の犠牲を以て娘は念願ドイツへ渡り治療を受けることが叶う。

「下石畑——〝しず〟?」

 どうかなさいましたか、と秘書が心配そうに歩み寄る。

「なんでもない。下がれ」

 平静を装うが、冷や汗が止まらない。見覚えのある経歴に、年齢。

 しかしその先に刻まれた経歴は、誰もが目を伏せたくなるような凄惨なものだった。

 ——罪状は強盗殺人未遂、動機は貧困から来る金銭奪取だと?

『……呪いだよ』

 ふと、あの日の背広が囁いた。

 かつて冷たい目で俺を見下した男が……誰よりも慈しむような温かい目で見つめていた。

 笑いがとめどなく込み上げる。

 割れた腕輪が今——正義を纏い悪の首根に絡み付いたのだ。

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