[9]①誰かが“昨日の記憶だけ”を失っている②鍵が回らないはずの扉が、ひとりでに開く 120min
「回覧板をお持ちしました~」
「善子さん、いつもありがとねぇ。しかし最近、小学校の子が行方不明になったり何かと物騒よねぇ。……いちご飴食べるかい?」
ありがとうございます、と老婆から飴を受け取り頬張る善子。
「これ、凄くおいしいです! 毎日悲しいことも疲れちゃうこともいっぱいあるけど、この飴のおかげで元気が貰えます」
満面の笑みで力こぶを作るるような仕草をする善子に、老婆もしわを寄せて笑顔になった。
それから軽い井戸端会議の後、「お元気で」と善子が老婆の家を後にする。
「この飴、苦手なのよね……。ごめんなさい」
ポケットからティッシュを取り出し、吐き出した飴を包む。
そうして眉尻を落とし、善子は疲れ切った表情で自宅へと歩いて行った。
「おばあちゃん。誰か来てたの?」
玄関扉を挟んだ、その内側。二階からドタドタと駆け下りてくる孫娘に老婆は振り返る。
「ああ。善子さんが来てたんだよ。……いつも身体の悪い老人に代わって回覧板を回してくれて、本当にありがたいねぇ」
「善子さん? うわ! 私も会いたかったなぁ。あの人ね、この前テストを頑張ってくれたご褒美って、お古の人形をくれたんだ!」
ぴょんぴょん跳ねる孫娘に、これまた笑みを浮かべる老婆。
夫と娘に蒸発され憐憫を抱かれながらも、誰もが親しむ善良な三十路の女。それが善子の人物評だった。
その日の二十四時。家事やスキンケアを終え、明日の仕事に向けた準備をしようとした善子。
その手を——何者かに掴まれた。
「きゃっ、やめて——離して!」
振りほどこうとしても、敵わない。自分の一回りも二回りも太い腕に押さえつけられ、筋肉が悲鳴を上げる。
「だ——誰か——」
今度は口も塞がれ、ロープを乱雑に噛ませられた。
身をよじりながら涙目になる善子に、暴漢が囁く。
「付いてこい。大人しくしなければ命の保証はしない」
そして有無を言わさず善子は、玄関前に停車した白いバンの前まで連れ出された。
「叫ぶなよ。叫んだら殺すからな」
そうしてバンに乗せようとした刹那。善子が暴れ出し、態勢を崩したままタイヤに衝突した。
「あ——オイッ!」
暴漢に頬をぶたれ、声にならない悲鳴を上げたまま善子はそうしてバンへと収められていった。
「手枷は付けたな。……よし。口枷を外せ」
車内には運転手一名、誘拐役一名の計二名が居た。
誘拐にしては不備が多い設計だと双方が感じていたが、後部席に善子と座る誘拐役の男が埒外に巨躯だった。百八十は超えるだろう身長に、丸太をも思わせる太い筋肉。更にその自信を裏付けるかのような太い血管が、善子の心を脅かす。
「……奥さん。俺らの顔に見覚えはあるか」
巨躯の男がマスクを下ろす。清潔感のある顔立ちながら、野性味のある眉と高い鼻が目に映る。
その巨躯も相まって、男女問わず一目見れば絶対に忘れることがない顔だ。
だが、善子は震えて強く首を横に振った。
「しっ知りません。あ、あのっ! どうしてこんなことを……今ならまだ間に合いますから。辛いことがあるなら私に全部お話してください。私が、私が全部受け止めますから」
酷く怯えながらも暴漢に寄り添う姿勢を見せる善子に、ふと運転手の心が揺らいだ。
「なあ……。なんでこの女なんだよ。俺らさ、もしかして間違ってるんじゃないか」
「何言ってるんだ! 二人でこの女だって何度も話し合っただろ。こんなくだらない茶番で今更半端な決断をしてたまるか……!」
巨躯の男が善子の髪をわし掴んで持ち上げる。
——興奮して取り乱している。善子はいよいよ、自らの命に危機が迫っているとの実感が追い付いてきた。
「俺の目を見ろ。——貴様の中には悪魔が居る。今から俺らがそれを取っ払ってやる」
丸太のような手が善子に伸びる。
「だっ、ダメ——」
善子が目を閉じ覚悟を決めた時。
衝撃と轟音が響き渡り、車内がはげしく振り回された。
「っ……。オイ、なにやってんだ‼」
巨躯の男が運転席に向かって怒号を浴びせる。
「い、いや俺はなにもヘマってねぇよ。急にハンドルが効かなくなって——」
ふざけるな、と巨躯の男が運転主の胸倉を激しく掴む。
どうやら車はコンビニのコンクリート壁に衝突したらしい。騒ぎを聞きつけ、他の車や店から人がぽつぽつと集まって来る。
その隙を見るや、善子は後部座席のドアを後ろ手で開け、転がり落ちるように飛び出した。
立ち上がり、「助けてください」と息を切らし店に駆け込む。
救いの扉に飛び込み、後ろを振り返ると……暴漢二名が散り散りに逃げ出す姿が映る。
そうして善子は床にへたり込み、警察の保護を受けるまでその場で泣き頻っていた。
『犯人らは未だ逃走中であり、ここ数年の未解決行方不明事件とも強い関連があると——』
テレビを横切り、ソファに行儀よく腰掛ける。
「お母さん……。うん、大丈夫。辛いこともいっぱいあるけど、私幸せだよ」
ありがとね、と電話を切り——照明の電気を落とそうと棚に手を伸ばす。
ふと、隣のボロボロな鍵束が目に映った。
鉄臭く、赤黒い錆が纏わり付いており……まるで手入れが行き届いてない。まめな善子とは真逆の体質であることは明らかだった。
それを手に取った瞬間——善子の身体が止まった。
まるで生理機能そのものが再起動するかの如く、心臓の鼓動も、筋肉の痙攣も——全てが意識から遮断された。
そして……口の端を吊り上げ、微笑む。
地下室の扉が、今日も悪魔を待ち望むかのように——窯を開いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます