ばあちゃんの得意料理
@sabo527
ばあちゃんの得意料理
予定より仕事が早く片付いたのはきっと、おれの心があの懐かしい山々を求めていたからに違いない。列車は北へ北へと向かい、右手の窓から見える空は黒から紫に変わりながら稜線を光らせる。 故郷は長い冬を越えて、花々が一斉に咲き始める頃だろうか。
「この春は帰れそうなんだ」
電話の向こうにばあちゃんの喜ぶ姿が見える。
なにせ四年振りだ。あの時は結婚が駄目になったことを、一番喜んでいたばあちゃんには直接会って詫びたかったのだ。ばあちゃんは表情を曇らせるでもなく、慰めの言葉をかけるでもなく、ただおれの大好きなあの山菜汁を食わせてくれた。
あれから四年か。 予定が早まったことはばあちゃんには知らせていない。おれはばあちゃんがどうしてるか一刻も早く知りたくて朝靄のかかった家路へと飛んだ。
ばあちゃんは懐かしいあの家の玄関をちょうど出るところだった。これから山に入って山菜採りのつもりなのだろう。
一本道を下ると、そこは地区でも一番大きな家の前だ。 「朝早くからすみませんねえ」 市議会の議長でもあるその家の家長が玄関を開け、山かね、とつっけんどんに言う。
「孫が帰るんですよ。どうしても山菜をいただきたくて」
「本来あの山は誰も立ち入らせてないんだ。あんただけ特別って訳にはいかんのだよ」
そこを何とかお願いします、とばあちゃんは腰を深く折った。
知らなかった。 山菜なんてそこらの山にちょっと入ればすぐに手に入るとばかり思っていた。確かにどの山も誰かの土地ではあるんだろうが、手を掛けて育てているのでもない山菜を採るのにばあちゃんはこうやって頭を下げて頼んでいたのだ。
おれのために頭を下げないでくれ。申し訳ない気持ちで胸が痛む。
その時、奥から市議の奥さん、しずさんが手を拭きながら出て来た。
「いいじゃないの、あんた」
「だがなあ、時期も時期だし」
「あとであの子も行かせますよ。帰ってくるんでしょ、頃合いだと思うのよ」 そう言ってしずさんはばあちゃんに札を手渡した。 「ヨソモノのことは聞いてるだろうし、一戸さんのおばあちゃんなら心配はないけど念のため、ね」
「何から何までありがとうございます」
ばあちゃんはその札を宝物のように押し戴いてまた深々と頭を下げた。
「なんにせよ気をつけておくれね」
その言葉に頭をさげ、玄関先まで見送りに出たしずさんにまた頭を下げてばあちゃんは歩き出す。
麓の、小さな注連縄が張られた山門をばあちゃんは頭を下げて潜った。おれにあの山菜汁を振る舞うためにばあちゃんは何度頭を下げるのだろうか。 険しい山道をまるで散歩でもするように歩くばあちゃんは、とても古希をすぎているようには見えない。それでも時々腰を降ろして休む姿に老いを感じておれは切なくなった。
啄木の詩がふいに思い出される。今すぐにでもばあちゃんを背負ってやりたいと思うと同時に、今そんなことをしたらおれが泣いてしまうんじゃないかとも思う。
少し道幅が広がった場所で一休みし、それからばあちゃんは懐からあの札を取り出して掲げ、腕を一振りした。その手に握られた鈴が、りん、と澄んだ高い音を響かせる。
藪を跨ぎ、小さな沢を見下ろす小径にでたところで後ろから木をかき分ける音が聞こえた。
「やっと追い付いた。おばあさま、健脚にも程がありますよ」
「あれえ」ばあちゃんの顔がほころんだ。
「大ちゃんも連れて来たのかい」
四・五才くらいだろうか。やんちゃそうな顔をした男の子が駆け寄って、ばあちゃんの脚にしがみついた。 「この子は山の子ですから。。私なんかよりよっぽど頼りになるっておじさまが」
涼子だった。
四年前、理由も明かさずおれの前から姿を消したかつての恋人。子供がいたとは知らなかった。それとも、大きく見えるがこの子が三つほどなら、もしかしたらおれの。
「大ちゃんが大きくなるほどあんたも元気になって、好いことだ」
その言葉に涼子は肯いた。
「縁の遠い私を引き取ってくれたおじさまにもおばさまにも、色々教えてくださったおばあさまにも感謝してるんです。あの頃は運命を恨んだりもしましたけど、この子がこうして元気に育ってくれるのを見ると、ああ、間違いじゃなかったんだって」 それから、ああ、いけないと言って彼女は鈴を振った。
山中に高く澄んだ音が飛ぶ。
「てぃぃん」 大ちゃん、と呼ばれた子が鈴を真似て大きな声で叫ぶ。
「ああ、こりゃいい鈴だ」
もし子供が出来たら、男なら一文字で大、女の子なら鈴と書いてりん。別に深い意味は無かった。彼女との結婚を想像して言ったおれの戯言だった。涼子はそれを覚えていたのか。 でも何故彼女はそこにいるのだろう。おれの子供を宿した彼女が、おれに別れを告げておれの田舎に隠れ住んでいる理由がわからない。 なんとか探る方法がないかと考えてる時、沢を渡ってそれが近づいて来た。
「ああ、やっぱりいましたね」
そういう涼子の前に、大ちゃんが立ちはだかる。
「ヨソモノだよ、あんた達は下がってなさい」
ばあちゃんが鈴を手に前へと歩み出るが、大ちゃんがそれを制した。
「だいじょぶ、おれがやる」
茶褐色の首元。まさか、海を渡って来たのだろうか。立ち上がったヒグマは涼子の倍もあるように見えた。
沢の水音が遠くにも近くにも聞こえる。
ヒグマの吐く荒い息が次第に小さくなり、そして前足を地につけた。
「おまえは、ひとにはかなわない」
長い静寂を破って、大ちゃんが言った。
実際にはそれほど時間は経っていなかったのかも知れない。熊と大ちゃんの対峙は、長く、短かった。
話し掛けようとする涼子を止め、大ちゃんは相手の方へと一歩進み出た。 熊は怯んだように後ずさり、さらに大ちゃんが一歩前に出ると、ゆっくりと踵を返して去って行った。
「あいつはひとのにおいをおぼえた。もうゼッタイにちかよらない」
しゃがみ込んだ涼子に駆け寄り大ちゃんは自慢げにそう言った。ばあちゃんはその頭を撫で、たいしたもんだと褒めちぎっている。
「あの熊はここいらの新しい主になるかの」
ばあちゃんが言うと、大ちゃんはかぶりを振った。
「もうちがう。あいつはさっきまでいちばんつよかったけど、いまはかわった」
ばあちゃんは大きく頷いた。涼子はまだ理解しかねている。その手を取って助け起こしながらばあちゃんは言った。
「涼ちゃんは、この山の新しい主の母ちゃんになったんだよ」
どこからか鳥が一羽飛び立った。その羽音は、ばあちゃんの言葉に賛同しているように聞こえた。
浅い沢で子供を遊ばせながら、涼子はばあちゃんに尋ねた。
「本当にあの人と会って、この子を会わせて大丈夫なんでしょうか」
「しずさんが頃合いだと言ってたなら大丈夫だろうね。涼ちゃんだって、嫌いで別れた訳ではないだろう?」
わたしは、と涼子は声を落とした。 「あの人の重荷になりたくなかった」
結婚すると思っていた。ふたりで、あの街で幸せな家庭を築けると思っていた。だがある日、突然周囲の人間の心が読めるようになった。
「生まれながらに特別な力を持つ子を授かると、その子を育てるための不思議な力が母親にも宿る。山守の家系には時々そういう事が起きる」
ばあちゃんは誰に向かって話しているのか。おれの息子はその《特別な子》だというのか。
「男衆にはなかなか出んがの、出る時は強く出る」
涼子とは街で知り合った。おれは里を出て大学へ通い、その街で仕事に就いて、派遣スタッフだった彼女を見そめた。 早くに両親を亡くしたおれたちは互いに近いものを感じ、ふたりで暮らすようになるまでそう時間はかからなかった。
いわゆる天涯孤独で、高校卒業後派遣社員で生計を立てて細々と生きてきた彼女をおれは、いつかばあちゃんに引き合わせて家族の暖かみを教えてあげたかった。 おれにはばあちゃんがいたから。
なのに。
街での仕事は新鮮で、やればやるほど評価も上がり、いよいよ責任のある立場になろうかという時に彼女は去って行ったのだ。
ばあちゃんと涼子の会話の端々から、それからの彼女がどう過ごしたかを多少は窺い知ることは出来た。その頃おれは仕事に生きがいとやり甲斐を感じていたし、涼子はお腹の子供が街では育てられないことも直感で感じていた。ふたりで過ごすにはおれか子供のどちらかが犠牲にならなくてはならない。
どうしても子供を産みたかった彼女はおれの元を去ることに決めた。ひとりになり、大きくなっていく腹をかかえて途方に暮れている時に、突然来訪者が現れる。
しずさんだった。
まっすぐ彼女を尋ね当て、お腹の子供の育つべき場所へと連れて行ったのだという。涼子は、そこがおれの故郷だとは知らなかった。
そのしずさんが頃合いだと言ったのなら、おれと涼子の再会は決まったことなのだろう。
工藤家は特に力を持つ人間が多く出る家だった。旦那さんである市議を射止めた時も、まっすぐに彼を見つけて、出会うなり惚れさせたと子供の頃に何度も聞いた。
「おばさまには本当に感謝しかなくて」
涼子はしみじみと言う。原因がどちらにあるかは知らないが、あの家に子供は産まれなかった。しずさんは、大きな娘を迎えるからそのために必要なことだと夫に常々話していたそうだ。時が来たらそのようになる。言葉通り涼子を連れ帰った時、市議は悩みも疑問も失せてまるで約束を果たすかのように彼女を迎え入れた。
「まさかおばあさまが彼の言っていたおばあちゃんだなんて驚きましたもの」
おれだって驚きだ。探してはいた。真実を知りたかった。不思議と、涼子を忘れて次の恋を探そうという気にはならなかった。 彼女を見つけられなかったのも、忘れることが出来なかったのも、しずさんが言う《時》 がそうさせたのであれば納得がいく。
すべてはなるがままに。
彼女の安否を不安に思ううちにおれにこの力が芽生えたのも、なるべくしてなったことなのかも知れない。
「とうちゃんもうすぐ?」
川遊びに飽きた大ちゃんが山菜を摘むふたりに駆け寄った。 「でもとうちゃんずっといるよね」
涼子がキョトンとして息子の顔を見た。ばあちゃんは小さく笑い、口元に人差し指を当てた。 小さな山の主は、それを真似て内緒のしるしをばあちゃんと交わした。
そして、ふたりはおれの方を見た。 まあ、バレてただろうな。せいぜい頑張って、涼子にサプライズといこう。
国境の長いトンネルを抜ければそこは故郷だ。右手に登った太陽はだいぶその日差しを増している。北へ行くほど季節は逆戻りして、春の花と、ばあちゃんと、最愛の妻になる人と、それにやんちゃざかりの息子がおれを待っている。
それとあの懐かしい山菜汁。ばあちゃんの得意なおれの大好物だ。 続きは実際に会ってから。
おれは千里眼を閉じ、意識を故郷へと向かう車内へと戻した。
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