第3話 父の想い人

 『お兄様…か。今、それを言うのか……。』

人生で初めて、呼ばれた言葉だった。

 いつからこの子は、僕を兄だと教えられたのだろうか。

 何故、何のためらいもなくそう呼びかけられるのだろうか。

 

 問い詰めたい衝動を、必死に堪えた。今言うべきは、この母が潔く出て行く気になる、痛烈な一撃だ。


 僕は、呼吸を整えた。声が怒りで震えないように、慎重に息をした。

「君は、幾つかな?」

まずは、妹が納得した上で、出て行ってもらいたかった。

「10才です。」

妹は、おずおずと答えた。その様子に、気を良くした母が、口を挟もうとしたので

「貴方には聞いていない。口を挟まないでください。」

そう、先手を打った。母はまた真っ赤になって、口をもごもごさせた。

「10才か。ならば、物事の良し悪しは分かる年だね。」

真っすぐに、妹の目を見て語りかけた。

「僕は、この家の持ち主だ。君のお母様は、僕の家に勝手に上がり込んできたんだよ。許しも乞わずに。」

「えっ……!!」

一瞬、妹は母を見た。

母の赤い顔が、さらに歪んだ。僕は無視して、妹にだけ語りかける。

「君のお母様は、確かに僕を産んだけれど、生まれたばかりの僕を置き去りにして、出て行った。……離婚もしないままで、君のお兄さんや君を産んだんだよ。」

「なっ……!」

「だから、君のお父様とは結婚していない。離婚していないから、結婚できないんだ。」

「お母様、それは、本当なの?!」

妹は、母親に向き直ると、縋りつくようにして真剣に聞いた。

「僕は、僕を捨てて出て行ったこの人を、許すつもりはない。今更、母親面されても、親とは思えない。」

「お母様、本当なの?!」

妹は、もう一度、母に向かって叫んだ。母の顔色は赤から青に変わった。

「……本当なのね。」

「違うのよ。あのね、これには事情があって……。」

しどろもどろになって、取り繕おうとしているが、うまい言い訳は浮かばないようだ。

「事情というのは、この幡侯爵家の財産が目当てだからですよ。」

「え?侯爵家?」

「そう。うちは、侯爵家なんだ。あちらは皇家で格上だろうけれど、財産に関しては、うちの方が多いからね。だから、僕の父様が亡くなったこの時に、戻って来る事にしたんだろうね。財産目当てで。」

「……お父様を、亡くされたの?」

「そう。今日の早朝に。」

「ええっ!!今日?!」

「そう。今日。」


 妹は、無言になった。厳しい顔つきで黙り込み、考え込んでいる。


 やがて顔をあげ、母親を睨みつけた。

「私のお父様も、知っているのね。」

僕は。妹の後ろから言い添える。

「そうだと思うよ。何なら、そちらのお爺様とお婆様もだ。それに、跡を継がれている、叔父様もかな。」

 妹は、何も言えずに固まっている母親から視線を外した。

「……私って、不義の子……。」

まだ小さな手を握りしめて、妹は呟く。

「はは。古めかしい言葉を知っているね。まあ、世間的には、そう呼ばれるかな。」

僕は、あえて軽い口調で、母の目を見つめながら言った。


 僕は、妹をなぐさめるつもりはない。事実は事実。

 離婚が成立しなくて、あの母が幡家の財産に関しての請求を申し立てても、婚姻関係が僕の年齢分の期間、破綻していたと、僕が証言してみせる。

 この妹や、他の弟も、排除しなければならない、と心に決めた。

 だって……。

 父が亡くなった日に無断で入り込むなんて、余りにも厚顔過ぎる。

『この母を幡家の一員だなんて、絶対に認めない。』

そう心に決めた。


 初対面の妹を不憫に思ったのは、自分でも不思議な感情だった。

『ここを追い出しても、帰れる家はあるだろうし。』

僕は、そう、自分を納得させた。


「僕は、貴方を母親とも思っていないし、貴方が外で産んだ子も、兄妹だなんて思えない。全くの他人が、勝手に僕の家に押しかけて来て、とても不愉快です。」

母親に向けてそう言った。妹にも

「そういう訳だから、君も、僕にとっては赤の他人だ。」

真っすぐに目を見て、そう告げた。

「すぐに、出て行ってください。」


 妹の瞳が揺れた。泣くまいとしているのだろうか。

「お母様。帰りましょう。ここに居るのは嫌です。」

 妹は、幼いながらに世間を知っているのだろう。母親の手を強く引っ張りながら、この場から離れようとする。

 じれったい事に、厚顔な母親がそれに抗おうとしたので、僕は更に強く

「出て行ってください。不法な侵入で警察を呼びますよ。」

厳しい顔でそう付け加えた。


 バタバタと、忙しなく、母と妹は出て行った。弟達は来ていなかった。連れて来なかったのか、来れなかったのかなんて、気にもしたくなかった。

 母が抱えた鞄の、不自然な膨らみが気にはなったけれど、今はそれを確認する時間も惜しかった。


 僕は、父の子を宿した”若奥様”が気になっていたから。

 万一、母が彼女の存在を知らないのであれば、あえて教える行動は避けたかったのだ。この屋敷に居るべきは”若奥様”だろうから。


 ところが、若奥様の姿は、屋敷のどこにも無かった。

 この家の主人の父が亡くなったとの報せが届いて、屋敷中が混乱している間に、誰にも何も告げずに、家を出たようだった。

 この、寒い厳寒の中、彼女は身重の体で何処に向かったのだろうか。


 爺やは心労で寝込んでしまったので、秘書から詳しく話を聞く事となった。

 若奥様の名は、黒田 雪絵。

 

 若奥様の部屋は、父の寝室の隣の書庫だった部屋を、改装して作られたそうだ。

書物を読む事が好きで、本に囲まれていたかったそうだ。

 書物が好きなだけあって博識で、文字の美しさは、招待状の表書きを父から任される程であったとか。

 侍女の話では、とても庶民的な方で、料理から家事全般をそつなくこなせる人だったという。

 

 身分は、武家の息女だったが、父親が他領に向かった先で暗殺された為に、家の当主の座が父親の弟に移った。その為、男子を持たない母親と娘は、無一文で家を出る事になった。

 当初は、母親の実家で部屋住みとして家事手伝いをしていたが、実家の当主であった祖父が亡くなり、弟が当主を継ぐと、義妹から追い出された。


 行き場を失ったが、下町の長屋に住んで、縫物や代書・手習いで糊口をしのいでいた。やがて母親が病となり、医者代と薬代で借金をする事となってしまった。

 段々借金が嵩んで、身動き出来ない状態になっていった。

 それを苦にしたのか、母親が亡くなってしまったのだ。

 借金を返す目途も無い上に、心の支えだった母親まで亡くして、生きる気力を失った彼女は、皇宮の掘り端を、身投げ場所を探して歩いていた。


 そこにたまたま通りかかった幡家の車と、出合頭に接触してしまったのだ。

 幡 祥一郎は、情婦の元から帰宅する途中の早朝。

 掘りの水から上がる霧状のもやで、辺りの視界が悪かった。

 お互い、意図した接触事故では無かったが、雪絵は怪我をしていたので、屋敷に運んで医者の往診を頼んだのだ。


 医者が到着する迄の時間、祥一郎は娘と話をした。

 あんな時間に、皇宮の掘り端を歩いていた訳を。

 娘は、随分と年上の優しい紳士に、問われるままに正直に答えたと言う。

 まだ10に満たない年から、16才になる今まで、娘が母を支えて、必死に生きて来た様子に、祥一郎はひどく心を動かされた。寄る辺ない身の上に、同情したのだ。


 怪我は打ち身と捻挫であったが、医者の見立てでは、栄養状態がすこぶる悪いので、完治には時間がかかるだろうとの診断だった。

 回復するまで屋敷で面倒を見る事としたが、暇を持て余した雪絵は、

「何か、お役に立てる仕事を与えてください。私、字は綺麗に書けます。」

そう申し出たらしい。

 試しに秘書が書かせてみると、上品で風格のある字を目の前で書いて見せた。

「私の父は、書に造詣があり、私にも早くから習わせました。」

そう言って、座ってでも出来る仕事をさせて欲しいと、懇願した。


 雪絵の字を見た祥一郎は、いたく感心して、ちょうど出す予定だった招待状の宛名書きを頼んだのだ。

 彼女はせっせとよく働いた。字を書くのが好きだと、嬉しそうにしていたそうだ。

 反古紙に、落書きで描いた猫がとても可愛く描けていて、祥一郎はその猫を、せがんでよく描いてもらっていたらしい。

 武家の息女なだけあって、躾もちゃんとされているし、心根も優しい。言葉使いも上品で、何より笑顔が可愛らしかった。

 侯爵家で出す食事のおかげか、顔色も良くなり、くるりとした瞳の目元もふっくらして、黒髪も豊かになった。艶やかなその黒髪は、彼女の顔形を際立出せた。

 元々、綺麗な娘であったのだ。今は、その若さが香り立つようであった。


 雪絵の人となり、教養の高さ、武家の矜持。全てが祥一郎の求める物だった。

 祥一郎は、雪絵に恋をした。娘も、祥一郎の優しさと包容力に、強く惹かれた。

 気持ちが繋がった二人が、同じ屋根の下で、共に朝を迎える関係になるのに時間はかからなかった。


 祥一郎は、雪絵を恋人として、夜会や茶会の社交場に同伴するようになった。

 そして、息子の祥樹に紹介したのだ。


 ところが、息子から拒絶された。そのまま、お互いに歩み寄れず、時間ばかりが過ぎる事となった。

 

 ある夜会から帰宅して、雪絵は酷く体調を崩した。祥一郎が心配して医者に診せると、雪絵は懐妊していると告げられた。

 祥一郎は、驚喜した。


 その喜びの数日後、祥樹からの手紙が、父の祥一郎の元に届いた。息子からの初めての手紙に喜びを浮かべて開封したが、祥一郎は怒りに顔を強張らせる事となったのだ。

『家を出た母が、幡家の財産は、籍のある自分とその子供にも権利があると、親しい友人に漏らすようになったそうです。僕は、その事を認めなければいけないのですか。認める気持ちは、僕にはありません。』

それだけが書かれてある手紙だった。


 祥一郎は、すぐに動いた。愛しい雪絵と腹の子と、今まで愛情を直接示して来なかったが、大切に思って来た、息子祥樹の為に。


 ところが、苦肉の策で成人間近の祥樹に財産の全てを譲り渡しただけで、肝心の離婚が成立しないまま、祥一郎はこの世を去った。

 待ちに待った、正真正銘の我が子を手に抱かないままに。



『父様。詰めが甘いよ。何もかもを、僕に負っ被せて逝くなんて。』

僕は、父を亡くした悲しみよりも、これからの事を思って、暗澹たる気持ちになった。


 とにかく、雪絵の行方を捜さねばならない。

 探偵を雇って、彼女の行方を追う手配をした。


 そこからは、後から思い出せない程の、怒涛の毎日だった。

 警察からの出頭要請には、顧問弁護士と秘書が対応した。

 正当な手続きを踏んでいる権利の移譲だったので、僕が気にする事は無いと、秘書達は、一様に淡々と対応していた。


 母がしたという、しょぼい葬儀を取り消し、侯爵家当主の幡 祥樹の名で、新たに葬儀の手配をした。


 頭を使い過ぎて、現実味が実感できない中で、必死だった。

 爺やは寝付いたままだった。それも心配だった。



 気が付けば、父の棺が、地面に掘られた暗く深い穴に降ろされていっていた。

 僕は、ふいに、現実に戻って来た。目が覚めたように。


 周囲は、霧のような雨が重く垂れこめている。曇天の薄暗い世界。

『今は、いつ?何時?夕方??』

僕の目には、それ程周囲は暗く見えた。


 僕の隣には、祖父の妹の多恵様が佇んでいた。彼女から、深い悲しみの気配がした。涙は無いが、その全身から悲しみがあふれ出している。


 参列した、黒一色の衣装を纏った人々。その先頭に、僕が居た。


 急に、自分の足元にぽっかりと穴が開いて、そこに吸い込まれて行くような感覚に襲われた。恐怖に身がすくむ。

 はっはっと、短い呼吸音がどこかから聞こえる。額から汗が滴る。

 その呼吸音が、自分のものだと自覚した時、僕は無意識に、縋るように多恵様の方を見た。

 僕の異変に気付いた多恵様は、僕の手を、しっかりと握ってくれていた。

 そして

「ゆっくり、息を吐き出しなさい。吐いて、吐いて、吐いて。」

そう、小声で僕に言う。でも、吐けない。吐けない。

「しっかり。吐いて。そう、出来てるわよ。そう。吐いて。」

僕は、指示通りに出来ているのだろうか。

「出来てるわよ、さあ、今度は、ゆっくり、息を吸って。ゆっくりよ。」

僕は、息をゆっくり、胸いっぱいに吸い込んだ。

『あ、生き返った。』そう思った。


 急に、暗かった周囲に、色が戻った。

 多恵様の手の温もりを感じた。

 心配そうに、僕を見つめる、父の秘書と僕の秘書が居た。


 そして、多恵様のずっと後ろの木の陰に、隠れるようにして涙している、彼女を見付けた。

 彼女のお腹はふっくらと膨らんでいる。


『彼女だ。雪絵さん。』


 彼女も、僕の視線に気付いた。

 はっとしたように木の陰に逃げ込み、そして走り去る後ろ姿を認めた。


 僕は、駆け出していた。

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