第7話 日常

日常

同居を始めて、数日が経った。

 快は少しずつ家の空気に馴染んでいった。

 最初のうちは遠慮がちに廊下を歩いていたのに、今では「おはよー」と寝癖のままリビングに現れる。

 僕のマグカップを勝手に使いながら、パンをくわえて笑う姿は、まるで子どものようだった。


 その日も夜遅くまで書類を整理していると、廊下の奥から足音が近づいた。

「まだ仕事してんの?明日、早いんじゃないの?」

 カーディガンを羽織った快が、湯気の立つカップを手に持って立っていた。

「ココア作った。……俺のはちょっと甘すぎたから、亮介のは控えめにした」

「ありがとう」

 受け取ると、手の中に熱が伝わる。そのぬくもりだけで、胸の奥の凍った部分が少し溶ける気がした。


「なぁ、亮介ってさ、寂しい時どうしてた?」

 不意の言葉に手が止まる。

「……寝るかな。考えると余計寂しくなるから」

「そっか」

 快は俯いて、小さく笑った。

「俺もそうするわ。明日から」

 そう言って立ち上がり、僕の隣のテーブルに置かれた書類をまとめてくれた。


 リビングの灯りが少しだけオレンジ色に見えた。

 背中越しに聞こえる快の息づかいが、やけに近く感じる。

 何かを言えば壊れてしまいそうで、僕は黙ってココアを啜った。

 静かな夜だった。けれど、たぶんその静けさの中で、何かが少しずつ動き始めていた。



 後日、病院から帰って来た快はスタスタと歩いていた。

 食生活も安定して、血色も良くなり、何かを取り戻したような顔立ちになっていた。

 土木の仕事は続けるか悩んでいたようだった。


歩いている快の姿を見て

「うん!もう大丈夫そうだね。今日はその髪を何とかしよう」

 コーヒーを片手に僕は、ボサボサ頭の快に言った。

「えー!いいよこのままで」

 快は両手で、自分の頭を覆いイヤイヤと首を振る。


 「目が隠れてるし、邪魔でしょう?もう予約してるから、行こう!」


 嫌がる快を車に乗せて行きつけの美容院へ連れて行った。

「…………!」

 戻ってきた姿を見てびっくりした。ここまでとは。

 髪型1つでこうも変わるのか?まるでモデルのような顔立ち、これは大したもんだ!

「快、君はきっとモテただろうねー」

「んなわけ!」

 恥ずかしそうに快は呟いた。


 そのまま、洋服を買った。

ついでに出来心でスーツも揃えてみた。

快のスーツ姿はとても凛々しく眩しかった。

 僕は目を丸くしてさらに驚いた。体型がすらっとしているし、背筋が伸びているので、どこに出してもおかしくない男になっていた。快は何かスポーツでもしてたのか?

「快、……もしよければ、うちで働かない?俺の補佐として仕事してくれると助かる。何より、給料が出る」

 全身鏡の中の自分を見ながら「社会人スーツ、初めて着たわー!」と、ポーズを取りながら

「給料かー。俺にできるか?」

 と答えた

「大丈夫!1から教えるから土木も悪くはないが、また、大怪我されるのは心苦しい。」

「うーん……できるかな?」

 不安そうに鏡に首を傾げる快はたまらなく可愛いかった


  

 夕食の時間、快が聞いてきた。

「そう言えば、前に車でイチャコラしていたアイツとは付き合ってんの?なんか、いけない不倫的な?大人的な?」

あの日の事を言ってるのだ。

 どうなのよ~。と、ニヤニヤして俺を見ている

「ううん、そんなんじゃないよ。あの方は上司の奥様。ちょっと試されただけだよ。」

「試された?」

「ちょっかい出されて、もしも、俺が靡いたらクビにでもするつもりだったかな?」

「うぅわっ!こわ!」

「大丈夫、僕は何もやましい事は……」

 言葉が止まった。

「亮介?どした?」

「あー、前の会社では、そうゆう接待があった事はあったかな。社会に出れば、理不尽は沢山ある。自分で自分を守らないと。流されてしまって後悔する事だけは……僕はしたくないな。」

 そう呟いた亮介の瞳の奥には、まだ癒えない傷が静かに揺れていた

「ふうーん」

 と快は、そんなものか。と言うように頷いていた。


 夜、快が寝た後、僕は部屋の灯を落とし、ベランダへ出た。

 冷たい空気の中、街の明かりが遠くで瞬いている。

 カップの底に残ったコーヒーを口に含み、ふっと息を吐いた。

 その吐息が白く滲んで、夜空に溶けていく。

 あの頃の僕は、誰かに頼られることを恐れていた。

 自分が正しいのかも分からなくなって、流されるまま過ごしていた。

 そして――心を失う痛みはもうごめんだった。

 心のどこかで“もう誰も好きにならない”と決めていた。

 そうすれば、何も壊れないと思っていた。


 でも——。

 快は、僕が築いた壁の向こうから、あっけなく笑って手を伸ばしてきた。

 初めてうちへ来た日の、不安げな目。

 それでも負けん気だけは強いのにすぐ笑うし、すぐ照れる。

 彼のそんな表情ひとつひとつが、僕の中の硬く冷たい部分を少しずつ溶かしていった。


 気づけば、夜には彼が寝ていると思うと自分も安心して眠れるようになっていた。

 守るつもりだったのに、守られていたのは僕の方だった。


「……快」

 ソファで眠てしまった快の頬に、月の光が淡く差している。

 その髪を、そっと指で整えた。

 大人になってから、誰かの寝顔を見てこんなに穏やかに笑えるとは思わなかった。


 この世界に“永遠”なんてものはない。

 それでも、今この瞬間くらいは、誰かを包み込むように生きていたいと思った。


 もう、恐れることはない。

 悲しみも痛みも、ちゃんと抱いて歩いていける。

 その手を離さずにいれば、きっと——。


 夜風が窓から入ってきて頬を撫でた。

 遠くで車のライトが流れ、静かな夜の気配が街を飲み込んでいく。

 

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