第2話
か細い声が鼓膜を震わせた瞬間、凍り付いていた美乃梨の時間がぎしりと音を立てて動き出した。
最初に反応したのは鏡花の上に覆いかぶさっていた男だった。榊、と鏡花が呼んでいた、東京から来たというエリート。
彼はちらりと美乃梨を一瞥する。その視線には何の感情も含まれていない。まるで道端の石ころでも見るかのように。
ただ、状況を理解した途端、その整った顔に浮かんだのは驚愕でも罪悪感でもなく、あからさまな「面倒くさい」という色だった。
ちっ、と小さな舌打ちが聞こえる。
男は名残惜しむでもなく、汗ばんだ鏡花の体からすっと離れると、無造作に床に散らばったシャツとスラックスを拾い上げた。その動きには一切の躊躇いがなく、まるでこれが日常の一コマであるかのように手際が良い。
鏡花はベッドの上で、シーツをかき集めて震える体を隠したまま、ただ美乃梨を怯えた瞳で見つめている。助けを求めるように許しを乞うように。しかし、その視線は男が服を着る背中にも、不安げに注がれていた。
「じゃあな、鏡花。また連絡する」
男は鏡花にだけ、そう声をかけた。
そしてジャケットを羽織ると、寝室を出る間際、ふと足を止めた。男の視線がヘッドボードから無残に垂れ下がる、深紅のカシミアのマフラーに向けられる。
美乃梨が贈った、愛の証。
男は、それを見て、口の端を微かに歪めた。満足げな、所有者の笑み。その視線が次に美乃梨を射抜く。
あなたは、この遊戯のプレイヤーですらない。ただの背景なのだと。その目が雄弁に物語っていた。鋭いガラスの破片のように美乃梨の自尊心が切り裂かれる。
男は一度も振り返ることなく部屋を出ていく。玄関のドアが開き、そして冷たい金属音を立てて閉まるまで、部屋には奇妙な静寂が満ちていた。
男物のコロンの匂いだけが侵入者の痕跡として濃密に空気に溶け残っている。
二人きりになった。
かつては世界で一番安らげる場所だったはずの寝室が今は地獄のようだった。乱れたベッド、床に落ちた男の下着、そして淫靡な小道具に成り下がった、赤いマフラー。
「……みのり」
先に沈黙を破ったのは鏡花だった。
シーツを引きずりながらベッドを降り、おずおずと、傷ついた小動物のような仕草で美乃梨に近づいてくる。その白い肩には生々しい噛み跡が赤く残っていた。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら鏡花は美乃梨の足元に崩れ落ちた。
「違うの、これは……事故みたいなもので……」
陳腐な言葉が震える唇から紡がれる。
「一度だけなの、本当に。今日が初めてで……榊さん、すごく強引で……断れなくて……」
聞きたくなかった。その男の名前も、どんな風に事を致したのかも。
美乃梨は何も言えなかった。怒りが沸いてこない。悲しみも感じない。ただ、頭の中が真っ白で、心に巨大な穴が空いてしまったかのように何も考えられなかった。自分の感情を司る回路が焼き切れてしまったかのようだった。
鏡花は、美乃梨の沈黙を都合よく解釈したらしい。縋るように美乃梨のパジャマの裾を掴み、顔を上げた。涙と、まだ残る情事の熱で、その顔はぐちゃぐちゃだった。
「私……美乃梨のことも、本当に愛してるの。それは本当なのよ」
「……」
「でも……なんて言ったらいいか……私、たぶん、バイセクシュアル、なんだと思う……」
その言葉は、鈍器で頭を殴られたような衝撃を美乃梨に与えた。
バイセクシュアル。
二人の関係は、女同士だからこそ成立する、唯一無二の聖域だと思っていた。男が介在する余地のない、完璧な閉じた世界。それが美乃梨の支えであり、誇りだった。
なのに。
鏡花の中には最初から「男」という選択肢が存在していた。美乃梨が必死で守ってきた砦は、内側から、いとも容易く門を開かれていたのだ。
なんで、どうして、あの男は誰、いつから。
問い詰めたい言葉は喉まで出かかっているのに唇が動かない。声にならない。
この関係を失うのが怖かった。
鏡花がいない生活が想像できなかった。この札央市で、たった一人になることが死ぬほど恐ろしかった。この部屋の家賃も、光熱費も、生活のほとんどを支えているのは自分だというのに美乃梨の方が鏡花に依存しきっていた。
その弱さが怒りを麻痺させていた。
「もう絶対に会わない! 連絡先も、目の前で消すから!」
鏡花は必死だった。美乃梨の腕に自分の体を寄せ、冷え切った肌を押し付ける。
「お願い……捨てないで……。私には美乃梨しかいないの……」
その言葉が嘘ではないこともわかっていた。生活の基盤は、完全に美乃梨が担っている。フリーのイラストレーターとしての鏡花の収入だけでは、このマンションで暮らすことすらできない。
だから、これは愛情からの懇願なのか、それとも生活を失うことへの恐怖からの懇願なのか、美乃梨にはもうわからなかった。
その時、鏡花がぽつりと、悪夢の続きのような言葉を呟いた。
「……美乃梨には絶対に与えられないものを、あの人はくれたの」
空っぽだった美乃梨の頭にその言葉だけが鋭く突き刺さった。
「……なにそれ」
ようやく、絞り出すような声が出た。ひどく掠れていて、自分の声だとは思えなかった。
「あ、ううん! なんでもない! 忘れて! 私がどうかしてただけだから!」
鏡花は慌てて首を横に振る。だがもう遅かった。
美乃梨には絶対に与えられないもの。
それは、ただの性的な快楽の話ではない。美乃梨には決して与えられない、決定的な何か。
男に「女」として求められるという承認。
社会の「普通」とされるレールの上で、男に選ばれ、愛されるという優越感。
美乃梨との完璧な百合の世界は、鏡花にとって、その「普通」からの逃避でしかなかったのか。あるいは、その「普通」を手に入れられない代用品だったのか。
美乃梨との人生そのものが否定された気がした。
「ごめんね、美乃梨……」
鏡花は、おずおずと美乃梨の顔を覗き込み、許しを乞うようにその唇を求めてきた。
美乃梨は、避けることができなかった。ここで拒絶すれば、すべてが終わる。その恐怖が体を金縛りに合わせたように動かなくさせた。
唇が重なる。
その瞬間、美乃梨は全身に鳥肌が立つのを感じた。
冷たい。
氷のように冷たい唇だった。
さっきまで、見知らぬ男と熱く求め合っていたとは思えないほど、生命の温度が感じられない。まるで死人の唇に触れているかのようだった。
二人の関係が今この瞬間に完全に死んだのだと、その氷点下の感触が告げていた。
美乃梨はゆっくりと鏡花の体から離れると、一言も発さずにリビングのソファに向かった。
鏡花も、それ以上何も言わずに寝室のドアを閉めた。
あの惨状の中で、一人で眠るらしい。
夜が更けても、美乃梨は一睡もできなかった。ソファの上で膝を抱え、ただ窓の外でしんしんと降り積もる雪を眺めていた。あの男が残したコロンの匂いがまだ部屋のどこかにまとわりついている気がして、息が苦しい。
寝室の床に落ちたままの、あの赤いマフラーを思い出す。拾い上げる気にもなれなかった。あれを見るたびに男の汗と鏡花の吐息が染みついているような気がして、吐き気がした。
時計の針が深夜二時を回った頃。
寝室のドアがかすかな音を立てて開いた。
美乃梨はソファの影で息を殺す。暗闇に慣れた目に鏡花が猫のような足取りでベッドを抜け出し、バスルームに向かうのが見えた。
何をするのだろう。シャワーでも浴びるのか。
しかし、バスルームのドアは完全には閉められず、一筋の光が廊下に漏れている。そしてゴーッという換気扇の音が何かを隠すように響き始めた。
美乃梨は、心臓が氷水で満たされるような感覚に襲われながらゆっくりとソファから降りた。靴下だけの足は、フローリングの冷たさを感じない。
バスルームのドアに耳を寄せる。
換気扇の音に混じって、押し殺した、囁くような声が聞こえてきた。
鏡花の声だ。
「……うん……ううん、大丈夫。美乃梨は、たぶん寝てるから……」
誰かと、電話をしている。
この時間に誰と。
答えは、分かりきっていた。
「……うん……ごめん、本当に今日は……あんなことになっちゃって……」
申し訳なさそうに、しかし、どこか甘えた響きを含んだ声。
「でも……」
一瞬の躊躇い。そして続く言葉は、美乃梨の存在そのものを踏み潰す、残酷な響きを帯びていた。
「……すごかった……。榊さんの、すごかった……」
恍惚とした、吐息混じりの囁き。
ああ、と美乃梨の喉の奥で、声にならない声が詰まった。
許せない。
許さない。
その感情が麻痺していた心の回路を、無理やり繋いだ。
電話の向こうの男に媚びる鏡花の声がさらに続く。
「美乃梨には悪いけど……うん……また、連絡、して……? 今度は、ちゃんと……最後まで……ね?」
最後の希望が音を立てて砕け散った。
もうしない、という約束も、涙も、氷点下のキスも、すべてが嘘だった。この女は、美乃梨という安定した生活基盤を確保した上で、外の男との刺激的な情事も手放すつもりなど微塵もないのだ。
美乃梨は、ゆっくりとバスルームのドアから離れた。
ソファに戻り、再び膝を抱える。
もう涙は一滴も出なかった。
ただ、体の奥深く、凍てついた魂の核のような場所で、静かで、冷たい何かが生まれたのを感じていた。
それは、憎悪と名付けるにはあまりにも純粋で、研ぎ澄まされた感情だった。
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