恋人に裏切られ全てを失った私は謎めいた情報屋と手を組んだ。幸せだったはずの元カノは全てを失い、私は新しい人生で静かに笑う。

ネムノキ

第1話

 窓の外は、完璧な白だった。


 すべての音を吸い尽くした世界に粉砂糖のような雪がただ静かにひそやかに降り積もっていく。札央市さつおうしの街並みは、その繊細な化粧によってアスファルトの黒を覆い隠され、まるで生まれたての無垢な姿を晒しているかのようだった。


 中瀬美乃梨なかせ みのりは、マグカップを両手で包み込み、その温もりを感じながら窓辺に佇んでいた。白い吐息がガラスに触れ、一瞬だけ世界を滲ませる。


「……きれい」


 隣から、夢見るような声がした。恋人である水野鏡花みずの きょうかの声だ。


 彼女は美乃梨の肩にこてんと頭を預け、同じ景色を眺めている。甘えるような仕草と、シャンプーの優しい香りが美乃梨の心を幸福で満たしていく。


「うん。今年の初雪、特別きれいだね」


「美乃梨と見るからだよ」


 鏡花はくすくすと笑い、美乃梨の腕に自分の腕を絡ませてくる。その体温がセーター越しにじんわりと伝わってきた。


 この部屋は、中央条ちゅうおうじょう公園を見下ろすマンションの七階。美乃梨がデザイン事務所の正社員になって、二年前に思い切って借りた場所だ。一人には少し広すぎる1LDKを、半年前から鏡花が埋めてくれている。


 フリーのイラストレーターである鏡花の収入は、まだ安定しているとは言えない。けれど、美乃梨には安定した給料がある。札央市で女性が正社員の椅子を守り続けることの難しさを知っているからこそ、この地位は彼女の誇りであり、そして鏡花との生活を守るための砦でもあった。


 美乃梨が稼ぎ、鏡花が家を守る。そんなありふれた役割分担が二人にとっては、誰にも邪魔されない楽園を築くための、大切な約束だった。


「ねぇ、美乃梨」


「ん?」


「今日、なんの日か覚えてる?」


 鏡花が上目遣いに悪戯っぽく問いかける。もちろん、忘れるはずがない。


「鏡花の誕生日でしょ。二十五歳、おめでとう」


「……覚えててくれたんだ」


「当たり前だよ。世界で一番、大切な日なんだから」


 美乃梨はそう言って、絡められた腕とは反対の手で、鏡花の柔らかな髪をそっと撫でた。猫のように気持ちよさそうに目を細める鏡花の顔は、美乃梨にとって何物にも代えがたい宝物だった。


「プレゼント、あるんだ。すっごく、すっごく悩んだんだけど」


 美乃梨は少しだけ勿体ぶるように言って、リビングのソファに置いていたブランドものの紙袋を指差した。


 鏡花の目が子どものようにきらきらと輝く。


「え、うそ! 開けていい!?」


「どうぞ、お姫様」


 鏡花は弾かれたように駆け寄り、わくわくとした手つきでリボンを解いた。薄紙をかき分ける音が静かな部屋に心地よく響く。


 中から現れたのは深紅のカシミアのマフラーだった。


 窓の外の白とは対照的な、燃えるような、鮮烈な赤。


「わ……」


 鏡花が息を呑む。


 それは、先月、二人でデパートを歩いていた時に彼女がショーウィンドウの前で立ち止まり、「素敵だね」と呟いていたものだった。値札を見て、すぐに諦めた顔をしていたのを、美乃梨は見逃さなかった。ボーナスのほとんどをつぎ込んだ、人生で一番高い買い物だった。


「これ……高かったでしょ……?」


「鏡花に似合うと思ったから」


 鏡花は、うっとりとした表情でマフラーを首に巻いた。雪のように白い彼女の肌に鮮やかな赤が驚くほど映えている。


「どうかな……?」


「世界で一番、きれいだよ」


 美乃梨の言葉に鏡花の頬がほんのりと赤く染まる。彼女はマフラーの端をぎゅっと握りしめると、美乃梨に駆け寄って、その胸に顔を埋めた。


「ありがとう、美乃梨。大好き。一生、大事にする」


「うん。私も大好きだよ、鏡花」


 抱きしめ返した体の、華奢な感触。この腕の中にある温もりこそが美乃梨の世界のすべてだった。


 この幸福が永遠に続くと、心の底から信じていた。


 その日の夕方、鏡花は少し申し訳なさそうな顔で言った。


「ごめん、美乃梨。今日、新しいクライアントさんと打ち合わせが入っちゃった。誕生日にごめんね」


「ううん、仕事なら仕方ないよ。大事な打ち合わせなんでしょ?」


 鏡花の顔がぱっと明るくなる。最近、東京資本の大きな会社から仕事の依頼があったのだと、嬉しそうに話していた。フリーの彼女にとって、大きなチャンスになるはずだ。


「うん! さかきさんって言うんだけど、すっごくキレる人でさ。東京からこっちの支社に来たばっかりなんだって。この仕事がうまくいけば、きっと、もっと大きな仕事もらえると思うの」


「そっか。頑張ってね。応援してる」


「ありがとう! すぐ帰ってくるから! 九時には絶対!」


 鏡花はそう言って、美乃梨が贈ったばかりの赤いマフラーを首に巻き、ぱたぱたと玄関へ向かった。


「そのマフラー、つけていくんだ?」


「もちろん! だって、美乃梨からのお守りだもん」


 振り返った鏡花は、人生で一番幸せだ、という顔で笑った。


 ドアが閉まる音を聞きながら美乃梨は、彼女の成功を心から祈っていた。自分のことのように誇らしかった。


 美乃梨は、鏡花が帰ってくるまでの間にサプライズの準備を始めた。彼女が好きないちごのホールケーキを冷蔵庫から取り出し、テーブルの上には奮発して買ったスパークリングワインと、綺麗に磨いたグラスを二つ並べる。


 部屋の明かりを少し落とし、間接照明だけのロマンチックな空間を演出する。窓の外では、雪がさらに勢いを増していた。しんしんと降り積もる雪は、まるで二人の未来を祝福しているかのようだった。


 九時を過ぎた。


 まだ、鏡花は帰ってこない。


 スマホにメッセージを送る。『打ち合わせ、長引いてる?』


 返信はない。


 九時半。時計の秒針の音だけがやけに大きく部屋に響く。美乃梨の心に小さなさざ波が立ち始めた。


 もしかしたら、打ち合わせが盛り上がって、そのまま食事にでも行っているのかもしれない。榊さん、というクライアントは、きっと話の面白い人なのだろう。


 大丈夫。鏡花は、私のことを一番に考えてくれている。


 そう自分に言い聞かせても、胸のざわめきは収まらなかった。


 十時。


 もう一度、メッセージを送る。『何かあった? 心配だから、連絡して』


 既読は、つかない。


 電話をかけてみる。呼び出し音がただ虚しく続くだけだった。


 美乃梨はソファに座り込み、膝を抱えた。テーブルの上のケーキがやけに場違いに見える。


 その時、ふと思い出した。鏡花が今朝、「打ち合わせで使うイラストのデータ、USBに入れ忘れたかも。寝室の机の上にあるから、もし忘れてたら、後でお願い」と言っていたことを。


 もしかしたら、スマホの充電が切れてしまって、連絡ができないだけかもしれない。USBが必要になって、困っているのかもしれない。


 届けに行けば、驚くだろうか。それとも、喜んでくれるだろうか。


 少しでも鏡花の顔が見たい。その一心で、美乃梨は立ち上がった。


 寝室のドアは、少しだけ開いていた。


 普段なら、きっちり閉まっているはずなのに。


 言いようのない違和感を覚えながらそっとドアノブに手をかける。


 隙間から、甘ったるい、知らない匂いがした。男物の、コロンの香り。そしてそれ以上に生々しい、肌と肌が触れ合うような、湿った熱気が廊下まで漂ってくる。


 やめて。


 考えたくない。


 心臓が氷の塊を飲み込んだように冷えていく。


 ドアを、ゆっくりと押し開けた。


 そこに広がっていたのは地獄だった。


 見慣れた二人のベッドの上で、知らない男が誰かを組み敷いていた。鍛えられた背中の筋肉が浅黒い肌が醜悪な獣のように蠢いている。


 男の下から、苦しげな、それでいてどこか悦に入ったような、甘い喘ぎ声が漏れていた。


 聞き慣れた、愛しい恋人の声で。


 そして美乃梨の視線は、一点に釘付けになった。


 ベッドのヘッドボード。その鉄製のポストにぐちゃぐちゃに巻き付けられた、鮮やかな赤。


 今日、私が彼女の幸せだけを願って贈った、カシミアのマフラー。


 それが男が腰を打ち付けるたびにまるで嘲笑うかのようにゆらり、ゆらりと揺れていた。


 瞬間、世界から音が消えた。


 男の荒い息も、鏡花の喘ぎ声も、窓の外で雪が降る音も、何もかもが遠くなる。まるで分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のように現実感が喪失していく。


 時間の流れがねっとりと引き伸ばされる。


 スローモーションの中で、男が動きを止めた。満足げなため息をつき、鏡花の上から体を離す。


 そこで初めて、汗ばんだ肌を晒した鏡花がドアの前に立つ美乃梨の存在に気がついた。


 見開かれた彼女の瞳が驚愕にそして恐怖に染まっていく。


 男の腕に抱かれたまま、その潤んだ瞳は、確かに美乃梨を捉えていた。


 泣き出しそうな、罪悪感に歪んだ顔。


 それなのにその頬は紅潮し、唇は熟れた果実のように艶めいて、瞳の奥にはまだ消えやらぬ恍惚の光が宿っていた。


 裏切りと、快感。その二つが矛盾なく同居した、見たこともない表情で。


 鏡花の唇がわずかに開く。


 助けを求めるように。許しを乞うように。


 そして白い静寂を破って、か細い声が絶望の響きとなって美乃梨の鼓膜を震わせた。


「あ……」



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