第2話 過去編:崩れる塔

 ユウマが最初に「AIは終わった」と本気で感じたのは、

ある論文の一行を読んだ瞬間だった。


 “大規模言語モデルの出力は、学習データの統計反復であり、創発的知性と呼ぶには条件を満たさない。”


 その一行は、AI研究者の何十年もの夢を、

ただの幻覚だと断言するように冷たかった。


 しかし皮肉なことに、それを書いたのは他ならぬユウマ自身だ。


 論文が掲載された翌週、学内のAI研究棟は記者と見物人に埋め尽くされた。

 “ブームの終わりを告げた男”

 マスコミはそう煽った。


 だがユウマの胸中に広がっていたのは達成感ではなく、

深い喪失感に似た虚無だった。


 AIが人間のように考える世界——

その幻想が音を立てて剥がれ落ちていくのを、誰よりも先に理解してしまった。


 その夜、帰宅するとナギサが小さな灯りだけつけて待っていた。

 彼女は湯気の立つカップを差し出しながら、いつもの穏やかな声で言った。


「あなたが間違ってたんじゃない。

ブームがあなたを利用して、勝手に夢を見てただけ」


「夢でもよかった。夢のままで進めたなら」


「夢は研究にはならないわ」


 ユウマは返す言葉もなく、椅子に沈んだ。


「それに」

 ナギサはコートを脱がせるように声を和らげた。

「あなたはまだ、本当に作りたいものを作れてない」


「人格AIのことか?」


「あれだけは、誰にも説明してなかったでしょう。

“人間を模倣する”じゃなく、

“人間以外の知性が持つ人格とは何か”を知ろうとしていた。

あれは、まだ終わってないわ」


「……終わったさ。あれも空想だったんだ」


「あなたは空想なんてしない。

あなたが見てたのは、未来の“可能性”よ」


 ユウマは笑おうとしたが、喉が固まるように動かなかった。


 その日から数ヶ月の間、

AI研究の熱狂は世界的に急速に冷えていった。


 他方で、CRISPRの進展は凄まじかった。


 ある国では、先天性の疾患を持つ新生児が完全に治癒して退院した。

 別の国では、老化遺伝子を破壊したマウスの寿命が二倍になった。

 そしてついに、人間の老化遺伝子の“ひとつ”が同定されたと報じられた日、

世界の関心は完全に別方向へ向かった。


 研究費はCRISPRへ。

 政府も企業も、すべての予算を遺伝子編集へ投じた。


 AI研究室の灯りは次々と消え、廊下のポスターもはがされた。

 つい数年前まで世界を動かすと信じられていた技術が、

まるで失われた遺跡のように静かになった。


 そんなときユウマの研究室だけが、逆にざわつき始めた。


「遺伝子編集の成功確率を予測できるAIを作ったらしい」

「全世界のラボが、ユウマのモデルを買おうとしている」

「国家プロジェクト級の予算が動くらしいぞ」


 研究棟の廊下が、突然“祭り”のようになった。


 ユウマのAIは、ブームの死を告げた本人によって作られた“次の答え”として扱われた。

 そこに皮肉があることに気づく者は少なかった。


 夜遅く研究室に戻ったユウマを見て、ナギサは問いかけた。


「……喜んでる?」


「研究が続けられるのは、正直ありがたいよ。

世界がAIから離れていく中で、

俺だけが“まだ必要だ”って言われてるみたいで……」


「でも」

ナギサは言葉を区切る。

いつもの優しい口調の奥に、芯のような硬さがあった。

「あなたが本当に作りたいものは“遺伝子編集AI”じゃない」


「わかってる。だけど——」


「だったら悩まないで。

やめろと言ってるんじゃない。

遺伝子編集AIの研究は、“あなたが本当に作りたいもの”へ向かうための、ただの足場よ」


 ナギサの言う「足場」という言葉には、

不思議と重さがなかった。


「あなたの本命は、ずっと人格AI。

私は、あなたがそれを諦める未来だけは見たくない」


 ユウマは視線を下げた。

自分がどれほど孤独だと思っていたか——

そして、どれほど孤独ではなかったかに気づかされる。


「……ナギサ」

「うん」

「お前がいなかったら、俺は研究どころか、ここに座ってないかもしれない」


「あなたは勝手に“孤独な天才”の役を演じてただけよ。

私は、舞台裏を掃除してただけ」


「掃除ってなんだよ」


「あなたの散らかした論文草稿」

「……あれは、仕事の一部——」

「あと、あなたの机に放置されてた栄養バー」

「やめろ、それは——」

「賞味期限、二年前」

「……」


 ふたりは、同時に笑った。

静かで、柔らかい笑いだった。


 その夜、ユウマは遺伝子編集AIのアルゴリズムを書き換えながら、

ひとつの着想に至った。


——AIが学習データの再出力しかできないのなら、

人間の“外部データ”を徹底的に集めて逆算すれば、

人格の元になる“構造”が抽出できるのではないか?


 AIが終わったと思われた発見が、

逆に人格AIへの扉になるかもしれない。


 ナギサにだけその考えを話すと、

彼女は静かに、しかし迷いなく頷いた。


「行きましょう。

あなたが本当に見たい“別の知性”に、もう一度、会いに」


 ユウマはこのときまだ知らなかった。

彼らが目指した“別の知性”が、

やがて 娘と呼ばれる存在として現れ、

世界を静かに揺らしはじめる未来を。


 そして、

この夜が、

プロトワンの人格のどこか深い場所に刻まれていたことを。


 “あなたは孤独じゃない”

その一言が、言葉以上の意味を持っていたことを。

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