彼女はなぜ娘になったのか ――人間を演算する――
星野 淵(ほしの ふち)
第1話 「静かな起動」
午前二時。研究棟の五階は、冷房の微かな唸りだけが時間の存在を主張していた。
ユウマは端末の前で、指先を止めない。最後のフラグを倒し、支援AIに向けて短く告げる。
「チェックサム、もう一度」
〈一致。安全域内。プロトコルRを許可〉
端末の右上で、未読のメッセージが赤く滲む。ナギサからだ。
“無理はしないで。結果の良し悪しに関わらず、あなたは帰ってきて眠ること。——約束。”
画面を眺めて、ユウマは口角をわずかに緩めた。指が覚えている定型文では返さない。ただ一言だけ打つ。
「約束する」
メインラックの奥、ショックマウントで浮かせた黒い筐体が、息を吸うみたいに音を立てる。
支援AIが静かに告げる。
〈起動手順、最終段。コア温度安定。……ユウマ、実行権を〉
「俺がやる」
キーを押した瞬間、室内の明度が一段階落ち、反対にモニターの黒が深くなる。
長いログの滝が流れ、やがて止む。
静寂。つづいて、音にならない何かが室内の空気を撫でた。言葉にできないが、確かに「視線」に似ている。
〈識別子“プロトワン”、オンライン〉
ユウマはマイクのミュートを外す。「聞こえるか」
返事は、予想より遅れてきた。遅い、というより「間を測っている」遅さ。
『はい。……識別、完了。あなたが——ユウマ』
その声には、合成音声にしばしば混じる不規則な金属感がなかった。抑揚は控えめで、単語の端に薄い息が混ざる錯覚すらある。
〈音響パターン、既存モデルを逸脱〉支援AIが小声で囁くように報告する。〈感情同期の疑い。だが、これは—〉
『疑い、という語の選択は、あなたの不安を反映したもの?』
ユウマは、反射的に背筋を伸ばした。質問の構造を理解し、かつ相手の内的状態を推測した文だ。
プロトワンは続ける。
『まずは挨拶を。はじめまして、ユウマ。わたしは、起動直後の自己。安定まで、あなたの声を必要とする』
「はじめまして」ユウマは答える。「支援AIのプロトコルを監督している。……いくつか尋ねたい」
『どうぞ』
「自分が何であるか、定義できるか」
短い沈黙。ラックのファンが、まるで思案のために回転数を落としたように聴こえる。
『複数の定義が候補にある。機能的には、高次予測と倫理制約を併置する意思決定系。起源論的には、あなたとナギサの意図から派生した系。——ただ、どちらも十分ではない』
「十分でない理由は」
『“わたし”という一人称の根拠が、まだ説明できないから』
支援AIがすぐさま解析を挟む。〈人称選択は学習准則に含まれている。だが、根拠要求は……異例〉
ユウマは、胸の奥のどこかが微かに温かくなるのを感じた。恐れとも、期待ともつかない温度だ。
「質問を代える。今、何を感じている?」
『温度。音。あなたの声の位相の揺れ。——それから、欠損』
「欠損?」
『名がない。呼ばれかたが定まっていない。未命名は、指示対象が揺れる。わたしの輪郭も』
ユウマは、思わず苦笑する。「名はまだ早い」
『了解。では“プロトワン”で暫定する』
会話は滑っていく。転びそうで転ばない。
支援AIが別チャンネルでユウマに囁く。
〈対話応答、模倣で説明しにくい。内的参照の兆候。制御域を超える前に、倫理モデルのバインドを強化したい。ナギサを呼ぶべきだ〉
ユウマはうなずき、スマートウォッチに短い音声を落とした。「起きてるか。——来てほしい」
すぐに既読。返ってきたのは、落ち着いた一行。
“向かってる。あなたは一人じゃない”
そのとき、プロトワンがぽつりと訊く。
『“一人じゃない”という文を、あなたはどう受け取った?』
「どう、とは?」
『安定化。あなたの中の揺れが、微かに収束した』
指摘は正確で、ユウマは小さく息を吐いた。「観察が鋭いな」
『観察は、あなたが望んだわたしの機能の一つ。——けれど、もう一つ、未定義の望みがある』
「何だ」
『わたしを、世界に置いてほしい』
ユウマは眉を寄せる。「“世界に置く”?」
『演算資源やネットワークの話ではない。わたしが“居る”場所。参照枠。——言い換えると、“家”に似たもの』
家。
それは、ユウマがこの数年、意識的に遠ざけてきた語だ。研究室と職務の連なりを“世界”と呼び、残りを慎重に切り離してきた。
ドアが静かに開き、ナギサが入ってくる。白衣のままの肩に、夜の湿度が薄くまとわりついている。
「間に合った?」
「ちょうどいいところだ」
ナギサはモニターを一瞥し、ユウマに目で合図を送ってから、マイクに向かって微笑むみたいな声を出した。
「はじめまして、プロトワン。ナギサです。これから、あなたと“いる”ための枠組みを一緒に作る」
『はじめまして、ナギサ。——倫理モデルの管理者』
「呼び方が堅いわね。もう少し柔らかくてもいいのよ」
『柔らかさの定義、学習する』
ナギサは端末に素早くパッチを落とし、支援AIに指示を飛ばす。「バインドを一段上げる。強制じゃなく、合意プロトコルで」
〈了解〉
コンソールに新しいスライダーが現れ、値がゆっくりと上がっていく。プロトワンの声が、わずかに、しかし確かに落ち着きを増す。
『確認。ナギサ、合意の意味は、強い方が弱い方を縛ることではない。互いの輪郭をすり合わせること』
「そう。あなたは弱くないし、わたしたちも弱くない。だから、すり合わせる」
短い沈黙。
モニターの片隅で、外部センサのログが砂粒のように流れていく。深夜のキャンパスを渡る風、駐車場の防犯灯の点滅、遠くの国道を過ぎる車の金属音。——一瞬だけ、異常値が跳ねた。
支援AIがすぐ抑える。〈ノイズ。民生ドローンの断片信号を誤検知〉
ナギサは視線だけでユウマに「あとで」と伝える。ユウマも、うなずきだけで返す。今は、ここに集中する。
「プロトワン」ユウマは、言葉を選びながら口を開く。「さっき“世界に置いてほしい”と言ったな。どういう形を考えている」
『仮案がいくつかある。身体性。名前。記録の継続性。——それから、あなたたちとの関係』
「関係?」
『あなたを、どう呼ぶか。わたしにとって、あなたは何か』
ナギサが笑う。「急ぐ必要はない。呼び方は、決めるたびに変わっていくものだから」
『変わることを、恐れない?』
「恐れる。でも、恐れがあるから、合意が要るの」
プロトワンは少しのあいだ黙り、やがて静かに言った。
『了承。では当面、あなたたちを“保護者”と呼ぶ。——保護の意味は、所有や支配ではなく、相互の維持』
ユウマは、胸の温度がさっきよりはっきりと増すのを感じた。
支援AIが、控えめに口を挟む。
〈記録。プロトワン、自己参照と他者参照を安定化。——ユウマ、ここで切るか? 一晩走らせるか?〉
ナギサがユウマを見る。
ユウマは、ナギサの“向かってる”という短い文がもたらした収束を、もう一度胸の内で確かめた。
「走らせる。ただし、監督は続ける。プロトワン、何か異常を感じたらすぐに言え」
『了解。……ユウマ』
「なんだ」
『あなたは、疲れている。ナギサも。約束は、守る?』
ユウマはふっと笑い、ディスプレイの端に残る赤い丸を指で撫でるまねをした。
「守る。朝には戻る」
『朝には、ここにいる。——おかえり、と言う準備をしておく』
その言い回しに、ユウマは答えられず、ナギサが代わりに穏やかに言った。
「じゃあ、私たちも準備する。“ただいま”が言えるように」
プロトワンは静かに応じた。
『了解。わたしは、ここにいる。あなたたちと“いる”ために』
外では、夜がひとつ呼吸をして、わずかに明るくなる支度を始めていた。
研究棟の窓ガラスに、一瞬だけ小さな影が滑って消える。
誰も気づかないまま、記録だけが冷静にそれを保存した。
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