きみの神話を見ていた
千桐加蓮
第1章 春の光の中で
第1話 訪問
電車が停車駅に止まった。車内のアナウンスがやけに遠く霞んで、まるで夢の続きみたいに響く。
春の空気は柔らかく、肌の上でほどけていく。眠気を含んだ光が、窓ガラスの向こうでゆっくりと流れていった。
いつもなら、ダンスの自主練習をしている時間。でも今日は違う。
小さいリボンが散りばめられている黒いキャップ帽を被り、耳の下で巻き髪ツインテールに結って、白いレースのシャツに薄桃色のコートを羽織り、ミニ丈のスカートで県境を越えた。
電車の揺れが小刻みに脚を撫でている。私は手足が軽くなった感覚でいるはずなのに、と自分に落ち着くよう声に出さずに言い聞かせる。
車両には、窓の外を見つめる女子高校生がいた。礼儀正しく座るもうひとりの高校生は、両耳にイヤホンをつけ、画面のリズムに合わせて指先を動かしている。二人はきっと同じ学校で、放課後も一緒に帰っているんだろう、と想像する。
隣には、眠る赤ちゃんを抱いた若い母親。そのお向かいには老夫婦が二組、座席に腰を下ろしていた。
電車は人の温度を連れて、静かに動いている。思っていたより世界は騒がしくなかった。みんながちゃんと自分の時間を生きている。そのことに、少しだけ安心した。
アスファルトが日差しを反射して空気に白い匂いを混ぜているのを見て、この季節が一番好きだと叫びたくなる。
二階建てのアパートの前で足を止め、小さく息を吸ってから、階段を上がる。上るたび、思いのほか鉄の音がトントンと鳴った。その響きが胸の奥の拍動と重なって、“ここに来ていいんだよ”と確かめてくれるみたいに感じる。
ポケットの中で、ガムを買った際に受け取ったくしゃくしゃのレシートが擦れ、ぎゅっと握りしめた。手が少し冷たくて、思わずもう片方の手で包む。
トートバッグにはクリアファイルに挟んだ小さな紙切れ。“またね”と私が幼少期に見ていた女児向けアニメのキャラクターを描いた絵がある。
返すために来た――という言い訳を、心の中で何度も繰り返す。
ゆっくりと息を吸ってチャイムを押した瞬間、「……鳴った」と、小さな音に自分の心臓も反応するみたいにドキドキした。
私がここにいること――社会的にどう見られるのだろう。
彼はそんなこと気にしていないはず。でも、外界からの視線がちらつく。
中からゆっくり足音が近づいてきた。ドアの隙間から差し込む光が、玄関の床に細い線を描いていた。
その光の中に、私の靴先が映る。
ピンクのコート、白いレースの袖。こんな格好でここに立っていることが、なんだか罪深い。
ドアが半分開いて、純二さんの顔が見えた。
「……
柔らかく驚く声。寝ぐせのついた明るい茶髪に、袖をまくった薄いTシャツ。外はまだ肌寒いのに、今まで薄着で生活していたのかと思うと心配だが、思っていたよりも生活感がある身なりをしていて人間味を感じる。
「おはようございます。いやこんにちは……かな?」
「どうしたの?」
「これ、返そうと思って」
絵を差し出す手が少し震えた。純二さんに近づきすぎること、離れすぎることも怖い。差し出すと、純二さんは目を細めて「覚えていたんだ、それ」とちょっとだけ笑った。
喜びと戸惑いが同じ皿に盛られているみたいな笑い方には、少し照れが混ざっている。
私はもっと軽い気持ちで来たつもりなのに、こんなにも慎重な空気に包み込まれててしまう。
玄関先の空気は、外の風と部屋の温もりが触れ合う境界のようだった。
一歩踏み出すたびに、社会の目と、純二さんの距離と、私の存在の重さを感じる。
「中、入る?」
その声に、少しだけほっとした。でも、同時に心の奥に小さな針がズッズッと刺さっていく。アイドル活動のことや私の家庭のことも、彼の部屋だけでいい。泥や濁った水みたいな記憶で汚したくない。
なのに、来てしまった。
「おじゃまします」
小さく呟いた瞬間、玄関の光が室内に流れ込み、怖さと期待が入り混じる。真っ白なキャンパスに真っ黒なペンキで水滴を垂らしてしまわないように注意しないと。ぎゅっと目を瞑ってから足を踏み入れた。
靴を脱ぐたび、心の闇がズルっと溶けていく。それでも、心の片隅には、“ここで間違ったことをしてはいけない”という思いが広がったまま。
純二さんは、ただ静かに見てくれている。静けさが、私には何よりも優しくて、胸の奥が熱くなる。
部屋の中は、光がよく回っていた。
ベランダのカーテンが風に揺れて、机の上にはノートと無地のマグカップ。
コーヒーの香りがふわりと広がる。苦みの奥に甘い焦がし砂糖の匂いが混ざって、彼の暮らしがそのまま漂っていた。
タバコも酒の匂いもなく、ただ静かに生活の温度がある。自分の家よりも少しだけ、呼吸が楽になる場所。
「大学、今日はお休み?」
「うん。入学式があるから、二年生は授業ないの」
「いいですね。お祝いムードだけ味わえる日」
「そう。でも在校生は行かなくていい日、ってやつ」
「羨ましいです」
私たちの笑い声が光に溶けて、カーテンの向こうに吸い込まれていった。
安心できる相手と一緒にいるという実感が、少しずつ肩の力を抜かせてくれる。
「藍沙ちゃんは、今日は学校?」
正直なことを言おう。作り笑いもしない私を彼は気持ち悪く思ったりしないのだから。
「行ってないです」
「そっか」
それ以上、何も聞かれなかった。嬉しい感情をひとまず心の奥底に追いやる。後に取っておくのだ。
外では、誰かの洗濯物が揺れている。
白いシャツの袖が風をはらみ、陽に透けた。
春の光が目に滲んで、笑いと涙の境目が曖昧になる。ああ、今日の空気は、ちゃんと生きているって感じる。
私、まだ機械人形になってない。
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