フェーズ3 迎撃
午後八時四十二分
夜になった、電話事件以降は心霊現象も確認できなくなった。しかし、それが一層、嵐の前の静けさを感じさせられ、イヌマキは落ち着けなくなっていた。
「なんとも、武者震いがするな!」
「イヌマキちゃん、大丈夫よ、今回はあなた、見てるだけでいいからね」
「ありがとうございます。ただ、本当に現れるんでしょうか、私にはとても……」
そんな話をしている時、イヌマキの喉に違和感が生じた。何も口に入れていないのに、異物が入ったようだった。思わずせき込み、つっかえているものを吐き出そうとする。異物が口まで上がってきて、舌でその感触を確かめると、ようやくそれが何かを理解した。
「髪の毛……?」
「直接干渉してきたか。やはり呪髪……」
「皆、気道確保を忘れるなよ!」
ニノツキの言葉に、各々が顎を天井に向け、気道の確保に努めた。イヌマキも見様見真似でやってみるが、中々上手くいかない。喉に絡む髪の毛は徐々に増殖している。このままでは、窒息してしまう。そんなイヌマキの様子を見たニノツキが、彼女の下顎を掴み、背中を強く押す。何とか気道が開き、呼吸が可能になる。
「ありがとうございます。すみません……、げほっ」
「私は問題ない。慣れているからな!」
そう言って笑うニノツキの声は、確かに余裕を感じられた。これまで、何度この呪髪を受けたのだろう。
そんなことをしていると、不意に照明が消えた。部屋の中が漆黒と静寂に包まれる。その後間もなく、二階東側の部屋のドアが、ゆっくりと開く音が聞こえてきた。そこから、裸足の足音が、ひたひたと階段を降り、確実にリビングに近づいている。わずかに開いた気道から細い呼吸をしながら、イチジョウが叫ぶ。
「総員、迎撃姿勢!」
その合図に、全員が身構える。扉が開く瞬間を、今か今かと待ち構える。『本体の出現』、ここに来るまで、イヌマキには冗談としか思えなかったが、彼らの尋常ではない様子から、本当に現れるのだと実感させられていた。
やがてリビングのドアが開く。イチジョウたちが迎撃姿勢を取ってから、かなり長い時間が経過したようにイヌマキは感じていたが、時間にしては一分もなかった。暗闇に目が慣れ、月明かりにぼんやりと照らされる室内。そこに立つのは、赤い着物を身に纏う、髪の長い女。しかし顔面に大きく黒い穴が開いていて、この世の者ではないことは明瞭だった。しかしその霊は、もっと驚かれると予想していたのか、自分の正面に水鉄砲を構えたイチジョウがいることに困惑したのか、満を持して登場したものの、棒立ちで動かない。
「今だ!」
イチジョウの合図に、イヌマキ以外の四人が懐に潜ませていた水鉄砲を構え、霊に向けて透明の液体を発射する。ピュコピュコと間抜けな音と、霊の呻き声が部屋に響く。どうやら効果があるようだ。部屋に漂う香りで、イヌマキはその液体が日本酒であることに気づく。
酒の雨に打たれ続ける霊は、部屋の隅に追い詰められる。力が弱まったのか、喉に絡んでいた髪の毛が不意に消える。口元が自由になったイチジョウ、ミツメ、ニノツキは口々に叫ぶ。
「罪のない人を脅かして何が楽しい!」
「やって良いことと悪いことがあるだろう!」
「脅かすなら、痴漢するおっさんとかにしなさいよ!」
ごもっともな説教をされ続けて、霊も委縮してきたようだった。登場した時よりも、明らかに項垂れている。俯瞰で見れば、どちらが悪者かわからない。
ミツメの「ブスで自信がないから、顔に穴が開いてるんでしょう」という言葉が(恐らく)とどめとなって、霊は消えた。消えたというよりも、この場にいるのが耐えられなくなって逃げだしたというほうが妥当だった。イヌマキは霊を、少し気の毒に思った。本当に恐ろしいのは、この人の方かもしれないと、イヌマキは思った。彼女は後ほど、この撃退方法が『オーラル・アタック』という技名であると聞かされた。
「撃退完了ね」
「ああ、この家にはもう住み憑かないだろう。……しかしミツメ、最後のは言い過ぎだろう」
「熱くなって言っちゃったのよ。別にいいじゃない」
「……なかなかに毒を秘めているな、君は」
「そこまで言わなくてもいいじゃない……」
「……私も、ミツメさんが一番怖かったです」
「……返す言葉もないわ」
項垂れるミツメを横目に、イヌマキは作戦前に受けた浄化方法の意味を理解した。『具体的に、物理的に、誰が見ても納得できる方法』。あんなことをされては、霊もここにいられないだろう。イヌマキは今一度、撃退までの流れを思い返した。確かに具体的で、物理的で、誰が見ても納得できるやり方であったのは間違いない。しかし俯瞰的に見ると、彼らのやり方はあまりにも間抜けで、思わず笑ってしまった。
「ちょっと、笑わないでよイヌマキちゃんまで!」
「すみません、つい」とイヌマキは謝り、また笑った。
「愉快だなって、思ってしまいました」
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