第4話 まじわる色の先に



海は『こもれびとしずく』閉店後に、2件の配達を終えた。今回も不備なく、お客様に満足いただけたことにまずはほっと息をついた。でも今日はこれで帰宅ではない。車のハンドルを握る手に、少し汗を感じる。蓮の工房『蓮ノ葉工房』に行くからだ。一応、花の剪定という名目で行くのだが、メッセージのやり取りをしていたとはいえ、対面で会うのは1ヶ月ぶりくらい。とりあえず車を走らせて、工房の駐車場に置かせてもらう。入り口を前に大きく深呼吸。工房に来るのは3回目だが、なんだかいつも深呼吸をしている気がして、自分で可笑しくなってしまった。それが緊張をほぐし、扉を開けた。





――まじわる色は






海が扉をあけた音に気づいた蓮が、ろくろから顔を上げた。あっという顔をしたあと、ぺこりと頭を下げた。


【こんばんは】

「こ、【こんばんは】」

【お疲れさまです】

「おつ…【お疲れさま、です】」


両手を顔の前で交差させ、両手人差し指を向かい合わせて曲げる動き。握り拳をつくった右手を左手首に数回当てる動き。海の手話とゆっくりと動かした口元の動きを見た蓮が、きっと初めて使うであろう手話単語を真似て返してくれる。それが嬉しくて、海はさっきの緊張も忘れ自然と笑顔になった。それからはいつも通り、首から下げたスマホに文字を打つ。


『急に来ることになってごめんなさい。今、作業中でした?』

「いや、ちょっと土に触ってただけなので大丈夫です。むしろ、こちらこそわざわざありがとうございます。」


海は笑って首を振る。


『じゃあさっそく、お花剪定しますね!』

「よろしくお願いします」


律儀に軽く頭を下げた蓮に頷き、吊り下がっているお花を作業台に移動させる。色褪せてしまった花を摘み、伸び切って絡まり始めたツルを1本ずつ丁寧に解いていく。そこから10センチほど切り落とし、見栄えを整える。蓮の真剣な視線を手元に感じ、なんだか落ち着かないが、いつも通りを意識して作業する。


『こんな感じです!こうやって、伸びて絡まってきたら切り落としてあげてください。まだ少しお花が咲いていますが、咲き終わったら摘んであげると新しいお花に栄養が回りやすくなります。夏の間は、直射日光を避けて風通しの良い場所で育ててあげてください。もちろんお水も忘れずに!』

「なるほど…花が終わった後も丁寧に世話してあげることで、来年も咲いてくれるんですね。」

『はい!ハーデンベルギアは多年草なので、何度も咲いてくれますよ』

「これって、普通のハサミで切っても大丈夫ですか?」


その質問に、海はこれはチャンスと思って、自分のハサミが入っているショルダーから新品の花切りばさみを取り出す。今後手入れをしていくのに、必要になるだろうと思い、せっかくなら自分も使っている使いやすいハサミを渡そうと思って持ってきていたのだ。押し付けがましいかと渡すタイミングを伺っていたが、蓮から話題が出たので有り難く流れに乗らせてもらうことにした。


『これ、よかったら使ってください。これから必要かなと思って持ってきたんです、使いやすいので!』


ハサミを差し出すと、蓮は驚いたように手を前に出した。


「いや、そんな悪いです」

『お店に用意している一つなので、本当に気にしないでください』

「じゃあせめて、お金を払わせてください」

『大丈夫ですよ!僕が勝手に持ってきたんだし…』


お互いに引けない状況になっていると、蓮が何か思いついた顔をして「待っててください」と言い残し、裏に入って行った。戻ってくると、手には見覚えのある陶器。今日のお昼のメッセージのときに送ってくれた、猫の一輪挿しだ。


「これ、よかったら。」

『ええ!こっちの方が悪いです!せっかくの作品なのに!』


今度は海が遠慮する番になってしまい、慌てる。顔の前で手を振って受け取れないと意思表示すると、ふっと蓮が微笑んだ。


「試作品なので逆に申し訳ないくらいなので。使ってみて感想教えてください。改善に役立てます。」

『…本当にいいんですか?』

「はい、これと交換で。ハサミ、ありがとうございます」


やっと2人とも納得して、お互いに差し出していた物を受け取る。海は手にした猫の一輪挿しをじっと見つめ、どこに飾ろうかと考えていた。しかし、もうお花の剪定という目的を果たしてしまい、ここに居座る理由がない。海は何か話が続けられないかと逡巡するが、結局思いつかず、顔を上げ帰る挨拶をしようと右手をあげると、蓮が「あの…」と何か言いかけた。


「もしまだお時間よければ、お茶でもどうですか。」


スマホに流れる文章に、一瞬海の気持ちが見透かされたようで恥ずかしくなる。でもすぐに嬉しさが湧き上がってきて、文字を打つよりも先に大きく頷いた。蓮は自分の放った言葉に戸惑いつつも、海の大きな頷きを見て心を撫で下ろした。コーヒーとお茶どちらがいいか聞くと、海は少し悩んだ末、左手でカップを持つような形に右手をコーヒーをかき混ぜるような動きをして、コーヒーと口を動かした。蓮は頷くと、「座っていてください」と作業台の椅子を指差し、裏に入って行った。蓮はコーヒーを淹れながら、今日の午後からのことを思い返していた。













最近、工房の空気が少し違って見える。

午後の光が、工房の床に柔らかな影を落とし窓辺に吊るしたハーデンベルギアの鉢が、風に揺れている。紫の花はほとんど終わり、代わりに細いツルが少しずつ伸び、先が少し絡まり始めている。それを指で支えながら、蓮は小さく息をついた。

ここ最近、工房にいてもスマホを見ることが増えた。通知が鳴ったわけでもないのに、なんとなく手に取ってしまう。以前なら考えられなかった習慣だ。花のこと、作品のこと、ほんの短いやりとり。それだけなのに、どこか気持ちが和らぐ。文章の向こうで丁寧に返してくれるその人の性格が、少しずつ見えてくるようで、不思議と心地よかった。


(今日、来てくれるんだよな……)


昼前に届いたメッセージを思い出す。『工房の近くに配達があるので、剪定に伺ってもいいですか?』その一文を読んだとき、自然と頬が緩んでいた。誰かに会うことを、こんなふうに楽しみに思うのはいつぶりだろう。大人になってから、数少ない友人や、仕事関係の人と会うことはあっても、元々一つのことに集中すると周りが見えなくなる性格故に、新しいコミュニティを広げようとしたり新しく関わる人と関係性を深めようと思うことはなかった。大人になってから意識することのなかった人との距離、海と会ってからはその距離感を考えることが増えたように思う。

特別なことは何もない、花屋という仕事、そして手話、自分の知らなかった世界が広がる。乾いた土に静かに水が染み込むように、今までの淡々としていた日常に少しずつ色がついていくような感覚。それくらいの関係が、今の自分にはちょうどいい気がした。蓮は深呼吸をして、作業台を整える。工房の空気が、少しだけ明るくなった気がした。


時計の針が20時を過ぎたとき、海が工房にやってきた。ゆっくりと口を動かしながら、手話をしている。【こんばんは】【お疲れさまです】どちらも初めて知る動き。蓮も海の動きを真似て挨拶をする。

海は丁寧に花を剪定し、これからのお世話の方法も教えてくれた。それから、蓮のために花きりバサミを用意してくれていた。お礼になるかわからないが、今日できたばかりの猫の一輪挿しを渡す。海には“試作品”といったが、本当は商品にするつもりだった物だ。だけど、一輪挿しを作っている時点で、自分の中のどこかに海の存在があったのだろう。だから必然と呼べる行動だった。その一輪挿しを見つめている海を見ていたら、もう少し海のことが知りたいという気持ちが、自然と言葉になり海を引き留めていた。


海と自分の分のコーヒーを持って作業台に戻り、海の座っている向かいに腰を下ろす。引き留めたくせに、何を話そうか瞬時に思い浮かばず沈黙してしまう。蓮は元々自分からベラベラ話をする方ではなく、どちらかというと相手の話を聞く方が多い。蓮が頭を働かせていると、海がスマホに文字を打ち始める。


『コーヒーいただきます。このマグカップも素敵ですね』

「ありがとうございます。これは陶芸を本格的に始めて、最初の方に作った物なんです。だからまだ形も歪で。」


海の言葉に、陶芸を始めた頃の記憶が少しだけ蘇る。今、海と蓮が使っているマグカップは口をつける部分や取手の部分が波打っている。あえて…とも言えるが、これはまだまだ素人の作品だった。


『冬木さんは、いつから陶芸を?』

「一番最初に作ったのは小学6年生のときです。陶芸家を目指し始めたのは高校生。実は、伯父が陶芸家なんです。」

『そうなんですか?!伯父さんの元で修行されたんですか?』

「そうです。元々ここも伯父が使っていた工房で、譲り受けました。今は別の場所で作業しています。夏川さんはいつから花屋を?」


海が振ってくれた話題から、自然と言葉が続けられた。会話が弾み始めて肩の力が抜ける。


『実は僕も、姉から譲り受けたんです。大学生の時に手伝いを始めて、卒業後2年くらいは姉も一緒にお店をやっていたんですけど、結婚を機に僕一人で営業するようになりました。』

「お姉さんがいるんですね。何歳離れているんですか?」

『5つ上です。僕が今28歳なので、33歳ですね!』


蓮は、その言葉に眉を上げた。


「夏川さん、28歳なんですか?…俺もです。」

『ええー!落ち着いてるから年上かと思ってました…!いろいろ似てますね、僕たち』


海の明るい性格や、見た目の若さから年下だと思っていたが、年齢が同じと知って一気に距離が縮まった気がした。それに、個人経営のきっかけも海が言うように似ている。偶然と思っていたことが、縁に思えてくる。


『じゃあ、もしよかったら敬語なくしてもいいですか?』

「うん、そうしよう」


蓮が答えると、海は嬉しそうに小さく手を叩いた。


『誕生日は?』

「7月18日。夏川さんは?」

『僕は12月25日!』

「クリスマス…覚えやすいな」

『そうなんだよ〜、いっつもクリスマスと一緒に祝われるから、なんかイベントがひとつ減って損した気分になる』


そういって拗ねたように口を尖らせる海。毎年祝われているところを思い出しているかのようだった。


(誕生日を祝ってもらって、お姉さんと仲が良くて、温かい家庭で育った人なのかな)


普段の海の様子を見て、優しい内面や明るい性格になんとなくそう思う。もちろん家庭事情なんてものは表面的には何もわからない。ただ、そうだったらいいなと蓮は思った。


『ていうか、冬木さんも僕も名前と誕生日、真逆すぎない?!』

「…確かに。夏川さん、名前が全部夏のイメージなのに、誕生日クリスマスなんだな」


蓮は改めて言われたことに面白くなって笑うと、海はまた拗ねたような表情になって『冬木さんもじゃん!』とスマホの画面を力強く指差した。それからも2人は、血液型やら趣味やら休日の過ごし方…いろんなことを話した。その度、笑ったり驚いたり、こんなに心が動くのはお互いに久しぶりだった。


『じゃあ最後に、工房の名前の由来は?』

「俺の名前が蓮(れん)って言うのと、蓮の花を実際に見に行ったときに、水辺に浮かぶ大きな葉っぱが全部お皿に見えて。そこから名前をつけた。」


葉っぱがお皿に…?海の表情から疑問符が見えたが一拍置いてケラケラと笑い始めた。笑いすぎて目に涙が溜まっているのが見えて、蓮は(そんな変なこと言ったか…?)と「笑いすぎ」と言うと、海は深呼吸をして笑いを止めた。


「夏川さんのお店の名前は?」


蓮が質問し返すと、海はちょっと背筋を伸ばして手と口を動かした。


【花を買うとき、いつ?】

「…えっと、【花、買う…いつ?】であってる?」


海の表現した動きを真似ながら、声に出して確認すると、海は笑って頷いた。


「お祝い、誰かにプレゼントするとき?」

【正解!でももう一つある。】

「……あ、お墓参りとか?」

【そう!】


海は頷きながら右手の人差し指と親指を2回合わせると、次はスマホに文字を打った。


『花を買うときって、誰かへのプレゼントだったり、場を華やかにするため、自分へのご褒美、みたいにどちらかと言うと幸せなとき。それが「こもれび」でもそれだけじゃなくて、悲しいときにもお花は寄り添ってくれる。それが「しずく」この2つを合わせて、「こもれびとしずく」って姉ちゃんと一緒に考えたんだ。』


その文章を見て、蓮は胸が熱くなった。


「すごく素敵な由来だ」

『姉ちゃんとああでもないこうでもないって喧嘩しながら決めたからね!』


ちょっとしんみりした雰囲気を払拭するように、海はおどけてみせた。

海の感性にもっと触れたい。蓮は自然とそう思い「あのさ…」と海に声をかけた。【何?】と右手人差し指を左右に振ると、蓮の言葉を待つ。


「【友だちに、なりたい】」


蓮は、両手を握手するように組み、その後、右手の親指と人差し指を顎から下につまむように下ろした。その動きを見た海は、目を見開き、しばらく静止した。蓮の言葉、そして手話で伝えてくれたことに胸が打たれた。どうやって友だちになるんだっけと昼間に考えていた海の思いに、蓮が答えをくれた。


【僕も、友達になりたい】


海も手話で返すと、蓮は安心したように微笑んだ。海は、初めて蓮と自然に手話で通じ合えたことに、自分が思っている以上に嬉しさが込み上げていた。きっと調べてくれていたのだろう蓮の真面目さにも、さらに惹かれたのだった。


「よかった…。この歳でさ、改めて友だちになりましょうって変かなって思ってたんだけど、社会人になるとそこが曖昧な気がしてさ。」

『わかる。実はそれ、僕も考えてた。だから冬木さんがはっきり言ってくれて、嬉しいよ』

「そっか、なら言ってよかった。」

『友だちってことはさ、ご飯とか、あとはここに遊びにくるとかしてもいいんだよね?』


海が急に顔を輝かせて蓮に聞くと、蓮は頷いて「うん、いつでもおいで」と伝えた。その言葉に海は胸がきゅっとした気がしたけど、すぐに嬉しさが勝って【やったー!】と拳をあげてみせた。


春の終わりの涼しい風を感じながら、2人心は浮き立っていた。




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