手のひらに咲く
ひので
出会い編
第1話 まだ知らない、花の名を
朝7:00、工房の窓から射し込む太陽の光に反射して、土の粉がキラキラ舞う。
昔から早起きは苦ではないが、陶芸を始めてからは朝のこの空気が好きになった。
普段はもう少しゆっくり準備を始めるが、今日は陶芸体験教室の日。
お客様が来る前に自分の作品に触れる時間を作ったり、少し掃除をしたり、お客様の人数や希望する制作物を改めて確認する時間を確保するためにこの時間から動き始める。今日も、作業台をの上を丁寧に拭き、棚に置かれた器や小物の向きを整える。表向きは“準備”とういう名の作業だが、気持ちを落ち着かせる儀式でもあった。
冬木蓮(ふゆき れん)の工房ー『蓮ノ葉(はすのは)』は暖かな空気に包まれて、今日も1日が始まる。
――まだ知らない、花の名を
9:45、蓮ノ葉工房の主、冬木蓮は珍しく心がソワソワとしていた。
1週間前に陶芸体験教室の予約をしてくれた『夏川 海(なつかわ うみ)』というお客様の備考欄に『耳が聞こえないので、音声認識アプリを使用します。よろしくお願いします。』と書かれていたからだ。陶芸体験教室を開いてから数年経つが、初めての経験だ。
(音声認識アプリってことは…スマホを置く場所を作った方がいいのか?)
掃除をした工房を眺めてみるが、安心してスマホを置けるような場所がないことに今更気づく。
(確か、この辺に…)
蓮しか立ち入らない場所である裏に行き、表とは異なり少し乱雑な作業台を見渡す。微かに埃がかぶっている資料、失敗した制作の数々。その中から木製の皿立てを見つけ、埃を綺麗に拭き取りお客様用の作業台に置いた。
(これなら、お互いに画面が見える…か?あ、スマホが汚れた時用に綺麗なタオルも準備しておくか)
もう一度裏へ行き、新品のタオルを手に取ったその時ー
ーカランカラン
来客の合図が工房に鳴り響いた。心臓が小さく跳ねるのを感じながら肩越しに振り返り、反射的に挨拶の言葉を発した。
「あ、こんにち…は」
【こんにちは。10:00の予約、夏川です。よろしくお願いします。】
蓮は一瞬、硬直した。軽やかな手と口の動き。手話というものを、こんなに間近で見たのは初めてだった。蓮が固まっている間に、海はスマホの画面を向けて微笑んだ。そこには『こんにちは。10:00に予約してます夏川です!よろしくお願いします。』と書かれていた。それを見て(あぁ、さっきの手の動きはこれを表していたのか…)と少し冷静になる。
「あ、えっと…」
改めて挨拶しようと口を開くと、蓮が発した言葉がスマホの画面に文字として出てくる。すごいと思いながら画面を凝視している蓮の姿を見て、海はおかしそうに笑った。そしてスマホに何か文字を打って、また蓮に向ける。
『話してみてください。ちゃんと文字起こしされますよ!』
「こ、んにちは。今日は体験に来ていただき、ありがとうございます。夏川さん、よろしくお願いします。」
発した言葉が変換されながら文字になるのを見て、つられるようにいつもよりゆっくりと挨拶をした。蓮が話し終わったのを見て、海は自分に画面を向けて目で文字を追うと、蓮の顔を見て少し照れくさそうに、でもこれからの時間を楽しもうとする表情で頷いた。蓮は海を作業台に案内し、受け取り票とペンを渡す。
「ここに、名前と電話番号、メールアドレスの記入をお願いします。」
海はじっと蓮の顔を見た後、手に持ったスマホに目を向ける。そしてまた蓮の顔を見て頷いた。ペンを持った海に、蓮は思い出したように先ほど用意した皿立てをおずおずと近くに置いた。
「これ、よかったら使ってください。」
蓮の言葉を認識して動いたスマホの画面が、海の視界に入る。海は文章を読んで蓮の顔を見ると、皿立てを指差し不思議そうに首を傾げる。
「スマホ、ここに置いたらお互いに見やすいかと思ったのですが、どうでしょうか?」
蓮の言葉を見て海はパッと少し驚いたように顔を上げると、左の手の甲に右手を当てて上に上げる動作をしてニコッと笑った。
(今の、見たことある手話だった。でも、なんだっけ…思い出せない)
海は自分のスマホを皿立てに立てかけ、向かいにいる蓮にも自分にも見える位置に移動させると右手でOKの形を作る。蓮も反射的に右手で同じようにOKと返すと、海は再び紙にペンを走らせた。海が受け取り表を書いている間に、陶器に色をつける釉薬の種類が並べられているトレーを準備する。受け取り票を書き終えたのを見て蓮は海に声をかける。
「今日は、中サイズのコップの制作でよろしかったですか?」
『はい』
「それでは次に、コップの色を選びます。こちらが、釉薬の種類です。お好きな色を1つ選んでください。」
蓮がトレーを見せながら説明をすると、海の目が驚きに開き、そしてキラキラと輝く。興味津々といった瞳だ。スマホの画面を見て蓮の説明を読むと、再びトレーを見る。右手を顎につけ、悩んでいる様子が伝わってくる。
『ごめんなさい、時間かかって。どれも綺麗で迷っちゃいますね』
恥ずかしそうにスマホに打ち込んだ文字を見せてくる。先ほどからよく表情が動く人だなと蓮は感じる。
「皆さん悩まれるので大丈夫ですよ。僕も自分の作品のときによく悩みます。」
そう言うと海は安心したような表情をして、もう一度トレーを見ると一つの色を指差した。それは夏川海という名前のように、爽やかな青だった。蓮は初対面の人に対して、「あなたの名前みたいですね」なんて言えるタイプではないので、その言葉は心の中にしまって「綺麗な青ですよね。」とだけ返した。
壁側に設置されたろくろの前に海を案内し、準備していた土と桶に入った水を持ってくる。海は、座ったときにちょうど視線の高さに来る壁の出っ張っている台にスマホを移動させる。自分に向けるよう位置を調整すると、ろくろの上に置かれた土に目を輝かせる。蓮は海の左隣に座ると、桶に両手を入れ水をつける。両手をの水分を土に馴染ませる様子を、海は釉薬を見たときと同じ瞳で興味深そうに見つめていた。
「右の足元にペダルがあります。踏み込む力加減でろくろの回転速度が変わります。強くすると早く、弱くすると遅くなります。」
蓮の説明に、こくこくと縦に首を振る海。試しに右足に力を入れてみると、ゆっくりとろくろが回転した。「もう少し早く回転した方が成形しやすいです。」と説明するが、海の足の力加減は変わらず、ゆっくりと回転し続けるろくろ。不思議に思った蓮だったが、海がスマホを見ていないことに気づく。どう気づいてもらえばいいのか蓮は戸惑った。肩や腕を叩くのはなんとなく躊躇われ、少し悩んだ末に、海の視界に入るように右手をひらひらとさせた。蓮の手に気づいた海は、足を止め、蓮の方を見る。蓮がスマホの画面を指さすと海の視線もスマホに向いた。そして、なるほどといった顔をすると、もう一度足をペダルに置き今度はさっきよりも強めに踏み込んだ。そして、蓮の指示通りにひんやりとした水に両手をつけると、そっと土に触れた瞬間、また海の表情が変わる。おぉ〜!というような口の形と上がる眉。ここまでは手を止めながらでも進められたが、この後は土をコップの形にしていく。1回1回手を止めてスマホを見るのは、海にとって大変なのではないかと考える。予備として置いていた土を持ってきて、海の左隣のろくろに土を置き、作業を始める。海がこちらを見ているのに気づき、蓮も目を合わせる。
「ここからは手を止めてスマホを見て…だと作業が難しいかなと思いまして。僕の手元を見て一緒に作っていくのはどうですか?」
スマホの画面を見た海は、嬉しそうに頷く。一度土から手を離しタオルで拭くと、スマホに文字を打つ。
『ありがとうございます!見ながらの方が、わかりやすいです!』
蓮も笑って返し、2人はコップの成型を始めた。海は、左隣の蓮の様子を見ながら、ペダルを踏む足の力を強めたり弱めたり、土の表面を整えたら真ん中に穴を開けるように親指を埋めていく。だんだんと土の塊が形を成していく。ある程度形が整うと、蓮が少し仕上げをして完成となった。
作業台に移動し、自分の作ったコップをまじまじと見つめる海。それから、ろくろに置かれたままの蓮のコップに視線をうつす。
『やっぱり、プロの作品は違いますね!実際に作っている姿を見られるなんてとてもいい経験でした。ありがとうございます。』
「ありがとうございます。夏川さん、見ているだけなのにこんなに綺麗に作れるのすごいですよ。器用なんですね。」
お互いに褒め合ってしまい、照れ臭い空気が流れた。その空気を断ち切るように、蓮がこの後の説明を始める。
「焼き上がりには3週間ほどお時間をいただいております。出来上がりましたら、夏川さんのメールアドレスにご連絡しますね。」
『はい。よろしくお願いします。今日はとても楽しかったです。いろいろ配慮していただいて、ありがとうございました。』
お会計をして、海を工房の入り口まで見送る。蓮からお辞儀をすると、海も丁寧にお辞儀を返した。蓮は歩いていく海の背中をぼうっと眺めた後、工房の中に戻った。蓮は先ほどまで海が座っていた作業台前の椅子に腰掛け、ふぅっと息を吐いた。1時間くらいだったが、濃い時間だった。けれど、海の明るさに助けられ、途中からは緊張を忘れていたことに気づく。光にあたると明るく見える茶色の髪をうしろの低い位置でお団子にしていた。前髪は鼻の辺りまで伸び、真ん中で分けられていた。作業中、時折邪魔そうに前髪を耳にかけていた姿を思い出し、同じ男なのに綺麗な人だったなと普段は抱かない感想をここの中でポツリと呟いた。
*
海は、仕事場である花屋の作業カウンターで、今日の朝市場で仕入れたばかりのハーデンベルギアの鉢植えを並べていた。まだ伸びきっていないこの花をお店のどこに飾るか考えていたのだ。そのとき、紺色のエプロンのポケットに入れていたスマホが振動する。確認するとメールが1件届いていた。
『夏川様 蓮ノ葉工房の冬木です。大変お待たせいたしました。先日、陶芸体験教室でお作りいただいたコップが完成いたしました。受け取り票をお持ちいただき、工房までお越しください。お待ちしております。』
そのメールを見て、思わず口角があがった。あの日、丁寧に接してくれた彼の姿が脳裏に浮かぶ。
(やった、やっと受け取りに行ける)
1ヶ月ほど前、たまたまネットで見つけた陶芸体験教室のお知らせ。調べてみると海の花屋から2駅先の工房だった。今まで陶芸をやったことはないが、なんとなく自分で作った器に花を生けてみたくなった。制作できる選択肢に花瓶はなかったが、中サイズのコップなら茎を短くして小さい花束を生けられる。それをお店に飾りたいと思ったのだ。申込ホームに飛んで必要事項を入力し、最後の備考欄で一瞬手が止まった。海は生まれつき耳が聞こえないろう者だった。両耳聴力が低く、補聴器をつけても周りの音が大きく聞こえる程度で、何の音なのか聞き分けられない。物心がついたときから手話を第一言語として生きてきた。陶芸をよく知らない海でも、ろくろという機会を使って、土を形にしていくことは何となく想像できる。いつもは聴者と会話をするとき、スマホの音声文字起こしアプリを使う。花屋の店頭でも、タブレットを常にカウンターに置いてやりとりしている。ただ、陶芸となると手も目も土に向ける。スマホが見れない。通常は口頭での指示を聞きながら手を動かすのだろう。できるだろうかと考えるが、それでもやってみたいと思った。申込む前から止めていたら何もできない。断られたら断られたで仕方がない。今までだってそうだったのだ。備考欄には、自分は耳が聞こえないこと、音声文字起こしアプリを使うことを記載して、えいっと申込ボタンを押した。結果、備考欄に記載した内容への了承の返答と、第一候補日に工房に来てくださいという旨のメールが返ってきた。断られなかったことに安堵し、その日を楽しみにしていた。
海は、メールが届いた次の花屋の定休日にさっそく蓮ノ葉工房に向かっていた。あの日と同じよく晴れた空。海の心の中はワクワクだった。そのワクワクはもちろん、自分が初めて作った作品を受け取れること、そしてもう一つは、また冬木蓮と関われることだ。初めて陶芸体験教室に向かった日は緊張のドキドキがあった。ホームページに体験の担当をしてくれる冬木蓮という同年代くらいの男性の制作している横顔を写真と、今までの経歴が載っていた。写真の顔は真剣で、雰囲気はよくわからなかった。工房の前で一度深呼吸をして扉を開けたのを昨日のことのように思い出す。
(最初は戸惑ってたのに…僕のためにいろいろ準備してくれてたんだよな)
メールではろう者ということに特に触れる文面はなく、了承の旨だけだった。しかし工房に着くと、スマホを置くための台を用意してくれていたり、ろくろを回すときにスマホが見れないことに気がついて、実際に隣で一緒に作業してくれた。一瞬、今までもろう者のお客さんが来たことがあったのかと思ったが、最初の動揺や会話の時に時折見せる沈黙の間で、この人自身が今向き合ってくれて考えてくれているんだと感じたのだ。黒髪で海より少しだけ背の高い、一見、硬派で真面目で。でも、海との会話でたまにふっと笑った顔を思い出すと胸があたたかくなる。写真の真剣な顔とは反対に、その笑顔が柔らかくて印象的だった。
『蓮ノ葉工房』
工房の前の看板を見て、あの時とは違う、ワクワクの気持ちを一度落ち着かせるために、海は深く深呼吸をした。扉を開けると、作業台を拭いている蓮の姿。海に気づくと「あ、こんにちは」と口を動かしたのがわかった。そして、右の人差し指と中指を立てた手を顔の前に持っていき、その次に、両手の人差し指を向かい合わせて折り曲げた。
(こんにちは、の手話だ…)
海は呆気にとられ、すぐに反応ができなかった。覚えてくれたのか…海が来るとわかっていて、挨拶の手話を覚えてくれたんだ。そう感じた瞬間ブワッと胸が熱くなった。海の反応がないことに、蓮は右手を後頭部に持っていき「すみません、違ったかな…」と少し顔を赤くしていた。その口の動きを見て、海は慌ててスマホに文字を打ち込む。
『あってます、こんにちはですよね、覚えてくれたんですか?』
「…はい。これと、あと【ありがとう】だけなんですが」
『嬉しいです、ありがとうございます』
「…よかった」
蓮の柔らかく笑った顔を見て、さっと目を逸らしてしまった。そして誤魔化すようにバッグから受け取り票を取り出して渡した。作業台に促されあの日と同じ椅子に座る。先ほど胸に広がった熱がまだおさまらないが、落ち着かせるように辺りを見渡す。作業台の端には平たいお皿とお椀が一つずつ、まだ土の状態で置かれていた。先ほどの蓮の様子からして、体験のお客さんがちょうど帰ったとこなのかもしれない。タイミングがいいと海は思わず自分を褒めた。海が座っているのは、裏に続く出入り口が見える場所だった。蓮が戻ってくるのがわかり、無意識に背筋を伸ばした。
「お待たせしました。こちらが夏川さんの制作いただいたコップです。」
スマホの文字を見て、コップを見て、思わず【きれい】と自然に、右手のひらを左の手のひらで撫でるようにゆっくりと動かす手話が出た。ハッと我に返りスマホに『すごく綺麗です!青がとってもいい色です!ありがとうございます!』と打つ。そして、さっきはコップに意識が行って気づかなかったが今日もスマホを置くための台を用意してくれていた。あの日と同じ場所に、同じ台。そこに、自分のことを思い返してくれた時間がある気がして、海はそっとスマホを置いた。
『そういえば、あのとき一緒に作ってくださった冬木さんのコップはないんですか?』
ふと興味が湧いて聞く。あるのなら、見てみたい。当たり前だが、土の状態だけでも形や質感が海のものとは違うとわかるものだったのだ。あれに色がついたらどれだけ綺麗だろうか。蓮はスマホの画面を見ると、もう一度裏に戻り、手にコップを持って戻ってきた。
「これです。」
海のものと並べて置かれたコップ。それは深い紫色をした、落ち着いた雰囲気が漂う、まるで蓮そのものみたいだった。海は言葉にならない息を吐いて、しばらく蓮のコップを見つめた。陶芸のことがわからない自分が言葉にしたら、どれも軽くなりそうで、何も言えなかった。ただ、海の食い入るように見つめる姿に、蓮は言葉にされなくても満たされる気持ちだった。
『ありがとうございました。またぜひ体験させてください。』
「こちらこそ、お待ちしております。…【ありがとう、ございました】」
工房の入り口で蓮に挨拶すると、ぎこちない手話でお礼を言ってくれた。
(ありがとうございます、は全部僕の方だよ)
体験に来ればまた会える、だけど何故か後ろ髪を引かれる気持ちで、海は工房をあとにした。
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