第10話:強制実習と、完璧な欺瞞


芽衣が大和の差し出した手を握り、「心の迷いを断ち切る」と決意を新たにして以来、二人の協力体制は次のフェーズへと移行した。芽衣はもはや、大和を恐れることはなかった。彼女の意識の中では、彼は完全に「感情を持たない、自分の意志に従う最高の道具」と化していた。


しかし、その平穏は長く続かなかった。


数日後の実習で、鬼島先生が重い口を開いた。


「来週は、入学後初の『個人包丁実習』だ。課題は『大根の飾り切り』。ペアワークは一切認めない。一人一人が自分の包丁を使い、その技量を評価する」


教室全体に緊張が走った。芽衣の体は、条件反射で硬直した。


(私一人で包丁を握る……。それは、絶対にできない)


彼女のトラウマは、強制的に包丁を握ることを許さない。この実習は、芽衣の夢を公の場で破壊する、鬼島先生からの容赦ない試練だった。


芽衣は大和と目を合わせた。大和の目には、既にこの状況を乗り切るための「何か」が宿っていた。


実習前夜。喫茶「カトレア」の厨房。


芽衣の目の前には、大和が用意した、新調されたばかりのペティナイフが置かれていた。刃の光が、蛍光灯を反射して煌めく。


「大和君。私は、無理よ。この包丁を握ったら、私はまた……パニックになる。実習は、逃げ場がないわ」


「握らなくていい」大和は静かに言った。


「どういう意味?」


大和は、一つの大胆不敵な計画を芽衣に提示した。


「明日、先生が見るのは、あなたの『包丁を握る姿』ではなく、『完成した作品』だ。だが、今回はそれができない。だから、私たちは、先生の目を欺く」


迎えた個人包丁実習当日。


芽衣の調理台には、大根とペティナイフが置かれている。鬼島先生は、芽衣を監視するため、あえて最前列に陣取っていた。


「宮本。貴様は私が見ている。始めろ」


芽衣は、ナイフを手に取らない。代わりに、大和の調理台と自分の調理台の間を、視線だけで繋いだ。


「大和君……エビの飾り切りを、3分で。花びらの形に、3ミリの厚さで切って」


芽衣の口から出た指示は、大和の調理台で大根に向き合っているはずの彼には、全く関係のない架空の食材に対するものだった。しかし、その声は、隣にいる大和にしか聞こえない、最小限の音量で発せられた。


芽衣は、あたかも自分の手元で包丁を動かしているかのように、緊張した表情で手を動かすフリをする。


その間、大和は、自分の調理台で、誰にも気づかれないようにカボチャの飾り切りに集中すると同時に、芽衣の架空の指示をすべて記憶し、脳内で完璧にシミュレートしていた。


芽衣の指示は、誰もが予想する「大根の飾り切り」ではなかった。


「カーブは、角度30度。深さは、1ミリ。迷わず、一気に」


鬼島先生が、訝しげに芽衣の調理台の前に立った。


「宮本。何をしている。大根の飾り切りだぞ! 刃物に触れろ!」


芽衣は、鬼島先生をまっすぐ見つめ、きっぱりと言い放った。


「先生。私は、この手の動きと、頭のイメージを、完璧な道具として操る練習をしています。食材は、あとでいい」


芽衣の言葉には、一切の動揺がない。それは、大和と交わした「完璧な欺瞞」を貫徹しようとする、プロとしての意志だった。


鬼島先生は、芽衣の常識外れの行動に面食らったが、その真剣な表情と、彼女の言葉の裏にある「プロの思考」を感じ取った。


「フン……。いいだろう。その手の動きで、完璧な作品を作ってみろ」


先生が去った後、実習の残り時間。


芽衣は、一度も包丁を握ることなく、大和に、自分の大根を託すための最後の指示を出した。


「大和君。私の大根は、『刃に咲く花』。…あなたの感性で、最高の作品を」


大和は、その言葉だけを受け取り、無言で芽衣の調理台に向かった。二人の秘密の同盟は、こうして、最大の試練を、完全な欺瞞という形で乗り切ろうと試みたのだった。

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