第9話:包丁の感触と、夢の輪郭

あの夜以来、喫茶「カトレア」の厨房には、重苦しい空気が漂っていた。


芽衣は、大和の「あなたの心から出る迷いが、俺の手に伝わる」という言葉が頭から離れない。


(私は、彼を完全に道具として扱おうとした。でも、彼は、私の心の鏡だった)


大和は、芽衣の恐怖心そのものを、料理の「不純物」として感知していた。そして、その不純物を取り除かなければ、二人の協力体制は、「まがいもの」の域を出られない。


翌日、芽衣は図書館で、「食材と包丁の歴史」に関する古い専門書を広げていた。


「包丁は、食を豊かにするための最も重要な道具である。それは、力ではなく、意志を反映する」


本に書かれたその言葉が、芽衣の目に突き刺さった。


(意志……。私の意志は、あの夜、男性の暴力に屈して、恐怖で歪んでしまった)


芽衣は目を閉じ、あの夜の出来事を鮮明に思い出した。倒れた男の体から、ナイフを引き抜いた時の、手のひらに残る冷たい感触。あの時の感触が、包丁という概念全てに、暴力的な意味を与えてしまったのだ。


「先生は、包丁を『魂』だと言った。でも、私には、包丁は『凶器』にしか見えない」


芽衣は、無力感に襲われた。自分のトラウマは、彼女の夢の根幹を、完全に腐らせている。


その日の夜の特訓。芽衣は、大和に、あえて難しい要求をした。


「大和。今日、あなたが使う包丁は、出刃。鬼島先生が持っていたものと同じよ」


大和は一瞬、眉をひそめた。出刃包丁は重く、刃が厚い。繊細な作業には向かない。


「ポテトサラダに入れるためのキュウリの微塵切りを、それでやってもらう。細かさは、1ミリ角」


「出刃で、1ミリ角の微塵切りを?」大和が問い返した。「時間がかかるし、きれいに仕上がらない可能性がある。なぜ?」


「いいから、やって。これは、私の指示よ」


芽衣は、大和を道具として試すかのように、冷たく言い放った。これは、大和が指摘した「迷い」の源、すなわち「恐怖」と「包丁」の結びつきを断ち切るための、芽衣なりの実験だった。


(出刃包丁=凶器)というトラウマの連想を、(出刃包丁=キュウリを刻む道具)という現実に上書きしようと試みたのだ。


大和は、静かに出刃包丁を握った。芽衣の指示に、感情的な反発は見せない。


トントン、トントン……。


出刃包丁の重さが、キュウリを潰しかける。大和は、手の力を極限まで抜き、重さを利用して、細心の注意を払って刃を動かした。


その音と、彼の真剣な表情を、芽衣は食い入るように見つめた。


(彼は、暴力ではなく、集中力で、包丁を扱っている。彼の手にあるのは、破壊ではなく、創造だ)


大和が刻み終えたキュウリの微塵切りは、驚くほど正確な1ミリ角だった。無理な要求を、大和はプロの技術で実現した。


「すごい……」芽衣は、素直に感動を口にした。


大和は包丁を置き、芽衣に向き直った。


「宮本。あなたが包丁から感じる恐怖は、あなたの夢と同じくらい強い。しかし、包丁はただの道具だ」


大和は、そっと自分の手を差し出した。


「俺は、あなたの手を汚さない。だから、あなたは、俺のこの手を使って、包丁の先にある『あなたの夢の輪郭』だけを見てくれ」


芽衣は、初めて、大和の差し出した手を見た。それは、あの夜の暴力を連想させる「男性の手」ではなく、自分の夢を形にする「道具の手」だった。


芽衣は、震える手で、その手を強く握りしめた。


「大和君。私は、あなたのこの手を、完全に信じる。私の迷いと恐怖を、二度と、あなたの手に伝えない」


その夜、二人は、トラウマの克服という共通の目標を胸に、より深い信頼の同盟を結んだ。

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