その「ん」は、終わりじゃなく始まりの言葉

kou

第1話 「しりとり」勝負開始!

 大学図書館の古い時計が、重々しく午後8時の閉館時間を告げようとしていた。

 それを合図にしたかのように、どこか物悲しい『蛍の光』のメロディが、静寂に満ちた空間に染み渡り始める。

 書架の森に散らばっていた学生たちが、一人、また一人と巣へと帰っていく。

 そんな閉館間際の焦りの中、文学部の秋月あきづき詩織しおりは、人文学専門書の薄暗い一角を必死に探していた。

 ゆるく編み込んだ栗色の髪が肩から滑り落ちるのも構わず、背伸びをして指先で古書の背をなぞる。彼女の大きな瞳が、卒業論文の最後のピースになり得る一冊のタイトルを捉えた。


 ――『月読のこよみ


「あった!」

 安堵の息を漏らし、詩織はその古風な装丁に手を伸ばす。

 しかし、その指先が触れる寸前、反対側からすっと伸びてきた、骨張った男の指が先にその背表紙を掴んだ。

 二人の指先が重なる。

 驚いて顔を上げた詩織の目に映ったのは、忌々しいほどに見慣れた顔だった。

 黒縁の眼鏡の奥で、感情の読めない瞳がこちらを見つめている。無造さな黒髪に、洗いざらしのシャツ。同じ大学に棲まう、腐れ縁の幼馴染――工学部の高遠たかとお健斗けんとだった。

「ちょっと、何するのよ! 私が先に見つけたんだから!」

 詩織が猫のように鋭く睨みつけるが、健斗は眉一つ動かさずに言い返す。その声は、まるで実験レポートを読み上げるかのように平坦だ。

「偶然だな。僕もこの本を探していた。正確には、この本に記されている古代の測量技術と天文計算のデータだが」

 詩織はカチンときた。

「はあ? これは江戸時代の歌人が月の満ち欠けを詠んだ歌集よ! あんたみたいな数字しか見ない人に、この繊細な言葉のあやが分かってたまるもんですか!」

 詩織の棘のある言葉にも、健斗は全く動じない。

 それどころか、その黒縁眼鏡の奥の瞳には、予測通りの反応を確認したかのような、ほんのかすかな光が宿っていた。

 このやり取りは、今日に始まったことではない。

 家は近所で顔見知りだが、決して仲良しこよしではない。

 保育園の砂場でのことだった。

 詩織が作ったピカピカの泥団子を自慢すると、健斗は「球体に近似するには歪みが大きい」と評し、彼女を泣かせたのが全ての始まりだった。

 小学校の自由研究では、詩織が育てた朝顔の観察日記を「定点観測における定量的データが不足している」と一蹴した。

 中学の文化祭では、物語を作るのが好きな詩織の脚本に対し、健斗は「奇跡が起きて星が降ってくるという描写は、物理法則を完全に無視している。観客に誤った科学知識を与える可能性がある」とし、二人はクラスメートの前で大激論。「ロマンがない!」「非論理的だ!」と互いを罵り合った。

 高校の体育祭では、詩織はクラス全員の情熱や闘志を「炎」になぞらえ、フェニックスの垂れ幕を作る。

 すると健斗は「君がデザインしたそのフェニックスの垂れ幕だが、風の抵抗を全く計算に入れていない。当日の風速によっては、幕が煽られてポールごと倒壊する危険性がある。風を逃すためのスリットを入れるべきだ」

 と意見した。

 詩織は、その意見を無視するが、体育祭当日は予期せぬ強風が吹き、健斗の予測通りフェニックスの垂れ幕が大きく煽られて大騒ぎに。なんとか持ちこたえたものの、詩織は内心で健斗の正しさを認めざるを得ず、それがまた悔しくてたまらなかった。

 そして、大学の学部選択に至るまで、二人の価値観は常に水と油。交わるどころか、顔を合わせるたびに互いを弾き、反発し合ってきたのだ。

 健斗は、まるで古い定理を証明するかのように、淡々と続けた。

「言葉の綾、ね。その曖昧なもので一体何が生まれるんだ? 僕が必要なのは、この歌人が使ったであろう独自の計算式という『事実』だ。君の感傷的な解釈より、よほど価値がある」

「感傷的ですって!? 言葉がどれだけ人の心を動かしてきたか、知らないなんて可哀想な人! あんたのその無味乾燥な数式より、よっぽど豊かだわ!」

 売り言葉に買い言葉。

 二人の声は次第に大きくなり、周りの学生から迷惑そうな視線が突き刺さる。それに気づいた詩織が、声を潜めつつも怒りのボルテージを上げて健斗に詰め寄る。

「……いいわ。どっちがこの本にふさわしいか、勝負しましょうよ」

 勢いでそう切り出した詩織に、健斗は面白そうに片眉を上げた。

「勝負? どうやって決めるんだ。腕相撲でもするか?」

「そんな野蛮なことするわけないでしょ! 言葉よ、言葉! お互い大学生という知を探求する者として、私の持つ『語彙力』で、あんたを完膚なきまでに打ち負かしてあげる!」

 詩織は胸を張って言い切ったものの、「具体的にどうやって?」という健斗の冷静な問いに一瞬言葉を詰まらせる。

 そして、頭に浮かんだ最もシンプルで、最も語彙力が試されるであろうゲームを口にした。

「……しりとりよ!」

 一瞬の沈黙。

 健斗は呆れたように、心の底からおかしいというように、フッと息を漏らして笑った。


【しりとり】

 言葉遊びの一つ。

 名称の由来は「ルール」の項にもあるように、単語の最後の文字を取って、その尻字から始まる単語を出して継続させることに由来するため、漢字表記は「尻取」である。

 その原型は平安時代に遡り、貴族の言葉遊びが起源とされる。江戸時代には庶民に広まり、安永2年(1773年)の『當世風流地口須天寳』という書物にも「尻取の卷」と記載がある。

 現代の「ん」で終わるルールは、明治時代以降とされる。


 健斗の人をバカにした態度が、さらに詩織のプライドに火をつける。

「しりとり、か。小学生レベルの遊びで僕に勝てると?」

 健斗は挑発するように言うが、表情を引き締めて勝負に前向きになる。

「いいだろう、その勝負、乗ってやる。だが、ただのしりとりじゃつまらない」

 健斗は、まるで実験計画を立てるように、すらすらとルールを提案し始める。

「……そうだな。お互いの土俵で戦ってこそ意味がある。

 ルールはこうだ。

 第一条:期間は一週間。

 第二条:先に『ん』で終わるか、3時間以内に返信できなかった方の負け。ただし、23時から翌日の9時までは無効とする。

 第三条:専門分野の単語を使うこと。僕なら理系用語、君なら文学用語、といった具合にな。曖昧な言葉は禁止だ。そして、相手にその専門用語の意味を問われたら、きちんと説明できなければならない」

 それは、ただの語彙力勝負ではなかった。自分の専攻する学の世界を理解していなければ勝てない、知的なゲームへの昇華だ。

 詩織はゴクリと喉を鳴らす。

 早くも、健斗は勝ち誇ったように続けた。

「どうだ? これなら公平だろう。そして、負けた方は、この『月読の暦』の閲覧権を勝者に譲る。この条件で、受けるか? 文学部のお姫様」

 最後の挑発的な一言で、詩織の闘志は完全に燃え上がった。

「望むところよ! あんたのその理屈っぽい頭脳が、美しい言葉の迷宮でショートする様を、特等席で見ててあげるわ! じゃあ連絡方法は、LINEでいいわよね?」

 詩織が当然のようにスマホの緑色のアイコンをタップしようとした、その時だった

「待て」

 健斗は、氷のように冷たい声で、それを制した。

「本気で言っているのか?」

「何よ、その言い方。一番手っ取り早いじゃない。まさか、通話でしりとりする気?」

 健斗は心底信じられないというように、こめかみを押さえた。

「君は論文の参考文献は熱心に読むようだが、世の中のニュースには一切興味がないらしいな」

「なんですって?」

 健斗は、まるで出来の悪い学生に講義をする教授のような口調で、淀みなく語り始めた。

「いいか。君が今使おうとしているそのアプリは、2021年に中国の業務委託先から日本のユーザー情報にアクセス可能だったことが発覚し、大問題になった。政府機関・地方公共団体では使用の中止となった程だ。さらに記憶に新しいところでは、2023年には、利用者や取引先の情報など約51万9000件の情報漏洩が確認されており、電気通信事業全体に対する利用者の信頼を大きく損なう結果となったと、総務省から厳しい行政指導が入ったんだ」

 矢継ぎ早に繰り出される具体的な数字と事実に、詩織は目をぱちくりさせるしかない。

「そ、そんなの、私には関係……」

「大ありだ」

 健斗は詩織のか細い反論を、バッサリと切り捨てた。

「そのリスクの高さから、官公庁では機密情報や個人情報を取り扱う業務でのLINE利用は原則禁止されており、利用ガイドラインまで策定されている。国の機関が、だ。それを、学生とはいえ研究データを扱う君が、何の疑問も持たずに使おうとする。そのセキュリティ意識の低さには、もはや眩暈がする」

 健斗は眼鏡のブリッジを中指でくい、と押し上げ、詩織を値踏みするように見下ろした。

「それとも、何かい? 君の研究テーマや、卒論の進捗状況、友人とのプライベートな会話のログが、どこかの誰かに筒抜けになる可能性を許容すると? 『あら、大変』……そんな感傷的な一言で済ませるつもりか。実に文学的で、情緒を重んじる君らしい判断基準だな」

 最大限の皮肉を込めた言葉のナイフが、詩織のプライドを的確に抉った。理屈では何一つ言い返せない。

「〜〜〜っ! なによ! 意地悪! 理屈っぽい! ただ、みんなが使ってるから言っただけじゃない!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ詩織に、健斗はわざとらしく肩をすくめた。

「やはり話にならん。感情論で事実を覆い隠すのは君の悪い癖だ。だから、連絡手段はSMSにすると言っているんだ。これならキャリアの閉域網を使うから、セキュリティレベルが違う」

 そして、彼は追い打ちをかけるように、冷たい笑みを浮かべて続ける。

「それに、君のメルヘンなアイコンやポエムみたいなステータスメッセージに、思考を邪魔されなくて済む」

「あんたねぇ!!」

 詩織が完全に切れる前に、健斗はくるりと背を向け、さっさと図書館を出て行ってしまった。残された詩織が悔しさに打ち震えていると、手にしていたスマホが短く振動した。画面には、健斗の名前と、たった一言だけのメッセージ。


『開始』


 無機質な漢字が、先程の健斗の嘲笑そのものに見えて、詩織の闘志にこれ以上ないほどの火をつけた。

「くっ! 奇襲は戦端を開く定石ってことね。見てなさいよ、このインテリ気取りのサイバーセキュリティオタク! あんたの、その理屈っぽい頭脳じゃ逆立ちしたって思いつかないような、エモーショナルな言葉の奔流で溺れさせてやるんだから!」

 詩織はスマホを両手で握りしめ、返信画面を開いた。

 文系女子のプライドと、幼馴染への積年の怒りを込めた、最初の一手を打ち込むために。

 その無慈悲な二文字への返信として、詩織はまず、文系女子としての矜持を込めた一撃を放った。


 詩織:『し』→『詩歌』

 

 健斗からの返信は、早い。

 まるで計算式を解くかのように、端的だった。


 健斗:『か』→『可逆反応』


 四文字熟語のように見えて、化学の教科書から抜け出してきた、色気も情緒もない四文字。詩織は鼻白はなじろみながらも、負けじと打ち返していた。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る