過去(4)

 元山家と矢口家が分家する前の元木田家は、前述の通り武士家系である。この元木田家には、江戸時代の創始以来とある決まり事が存在していた。


 元木田家では、武道の訓練として獣を狩ることがあった。裏山に入って行って、矢を射り、獲物を仕留める。主な対象はニホンジカや狸、狐だった。その訓練の拠点として作られたのが、第二次大戦の後に正嗣もろとも灰燼と化した武芸の練習場だった。

 その練習場の壁には、狩りをする際の掟が大きく書かれていた。現代語に訳すと、おおよそ下の通りである。


其の一 山に入る際は必ず礼をする。

其の二 弓矢以外の武器を用いてはならない。

其の三 用いる矢は必ず十本以内に収める。

其の四 毒を用いてはならない。

其の五 羚羊カモシカを射ってはならない。

其の六 狩った獣の頭数を必ず記録する。


 これらの掟は、元木田家の開祖である元木田望三もちみつにより定められ、以後ほぼ変わらず受け継がれてきた。そして、今となっては森の所有権がある矢口家のみに引き継がれていた。

 望三がどのような意図でこれらの掟を定めたのか、明確な理由はよく分かっていない。

 第二次大戦の前、元木田家に興味を持った郷土史家が、調査をしたことがあった。結果、望三の発言資料などから、武芸の鍛錬を目的とした狩りであることを踏まえ、其の一から其の四、其の六についてはある程度意図が予想できた。

 しかし其の五については、なぜカモシカだけが明確に禁止されているのかが一向に分からず、なんとなくの推測をするほかなかった。果てには、「なんとなくただ好きだったのでは」という学者らしさの欠片もない言葉を残して、その郷土史家は調査を放り出したのだった。


 当時当主だった正嗣は、この調査を大変嫌がったそうである。最終的には、郷土史家の強烈な気迫と周囲の説得に折れて渋々許可を出した。しかし正嗣は条件を付けた。それは、

「調査まで一週間の猶予をくれ。またその期間、何人たりとも家に入るな」

というものだった。

 正嗣の妻・チエは「調査に賛成しておいて正嗣の言い分を一つも聞かないのはよろしくない」と考え、この条件を飲んだ。使用人たちもこれに従った。

 かくして調査前一週間、広い矢口邸に正嗣たった一人が残された。言いつけどおり何人たりとも敷地には入らず、家人らは曽慶家に宿泊した。


 迎えた一週間後、家人らが矢口邸に戻ると、室内はやけに綺麗になっていた。正嗣に訊ねても、

「掃除しただけだ」

と一言だけ。表情は硬く、それ以上事情を訊く者は容赦なく斬り捨てると言わんばかりだった。誰一人としてその意図は分からなかったが、ただただ異様なものを感じていた。

 しかし仏間に向かったチエは、すぐにその違和感の正体に気付いた。仏壇が一部屋分前に出てきていた。さらに後ろには、襖や土壁ではなく、灰白色のセメントが壁となって立ちはだかっていた。

 正嗣はこの一週間、たった一人で部屋を一つ塗り固めていたのだった。

 彼女は書斎に飛んでいき、パイプを吸っていた正嗣に訊ねた。

「どうしてあんなことをしたの」

すると、正嗣はゆっくりと煙を吐きながら言った。

「か…し…のき…くをけ……め…よ」

それは酷く掠れた声で、ほとんど聞き取れなかった。この瞬間、チエの目には正嗣がまったくの別人に見えた。

 その後は何度聞き返しても返事はなく、正嗣の態度はどんどん悪くなっていった。それに伴ってみるみるうちに夫婦仲が冷え込み、遂にチエは矢口邸を飛び出して郷里に帰ってしまった。

 使用人が「引き戻しましょうか」と訊ねても拒否し、部屋について質問した人に対しては問答無用で怒鳴り散らした。次第に、この消えた部屋に言及する人間は居なくなった。


 そして戦後、正嗣は狂い、祖父の手によって山腹の練習場に幽閉されることとなる。

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