第2話:森の静寂と、アレンという名
その時、恐怖と混乱で強張っていた足が小枝を踏み、パキリと乾いた音を立ててしまった。 しまった、と思った瞬間にはもう遅い。三人の鋭い視線が一斉にこちらを向いた。
「誰だ!」
鎧の男――イグニスさんが、血糊のついた大剣を瞬時に構え直す。その殺気は本物だった。 もう、隠れていることはできない。俺は観念して、両手を顔の横に上げてゆっくりと立ち上がり、茂みから姿を現した。
「あ、あの……敵じゃ、ありません……」
三対の目が、俺を値踏みするように見る。 その視線は、まず俺の顔へ、そして全身へと向けられ――そこで凍りついた。
泥と血で汚れた安物のスーツ。ヨレヨレのワイシャツに、片方だけになった革靴。 この世界の住人から見れば、それはあまりに異様な出で立ちだったのだろう。
「……なんだ、その妙な服は」
イグニスさんが訝しげに眉をひそめ、剣先をわずかに下ろす。
「貴族の道楽か何かか? こんな森で着るような格好じゃねえぞ。動きにくそうだし、防御力も皆無だ」
「待て、イグニス」
黒衣の青年――ゼフィルさんが、興味深そうに俺に近づいてきた。 彼は俺の前に立つと、無遠慮にスーツの袖をつまみ、指先で生地を擦り合わせる。
「……信じられん」
ゼフィルさんの目が驚愕に見開かれた。
「この生地、絹でも綿でもない。均質すぎる。織り目が、肉眼では確認できないほど細かい……。それに、このボタンだ」
彼が指さしたのは、プラスチック製の安っぽいボタンだった。
「宝石でも骨でもない、未知の素材だ。これほど軽く、硬く、均一な素材を、この精度で加工するなど……ドワーフの職人でも不可能だぞ」
「はあ? たかが服だろ?」
「たかが服ではない。魔力を一切感じないのに、この技術力……。君、どこの国の人間だ? 北方の帝国か? それとも南の島国か?」
ゼフィルさんの矢継ぎ早な質問に、俺はたじろぐ。 化学繊維もプラスチックも、この世界には存在しない「オーパーツ」なのだと思い知らされる。
「あの、お怪我はありませんか? ひどく汚れていますけど……」
助け舟を出してくれたのは、ローブの女性――リリアさんだった。 彼女は俺の怯えた表情を見て、ゼフィルさんを少し後ろに下がらせてくれた。 その優しさに少しだけ緊張が解けるが、同時に突きつけられる現実があった。 バス事故のこと、気づいたら森にいたこと。何から話せばいい? いや、そもそも「日本から来ました」なんて言って、信じてもらえるのか?
「……事故、で……。気づいたら、ここに……」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほどか細く、震えていた。
「事故?」
ゼフィルさんが鋭く問い返す。
「どこでだ。この森に街道はない。最も近い街でも、ここから数日はかかる。転移魔法の痕跡(レジデュ)もない。君は、空から落ちてきたとでも言うつもりか?」
彼の探るような視線が痛い。まるで、俺を解剖しようとしているかのようだ。 さっきの「連鎖的な偶然」と、このタイミングで現れた素性の知れない俺。彼が疑うのも無理はなかった。
「それが……分からないんです。本当に……」
これ以上話しても、墓穴を掘るだけだ。俺が口ごもっていると、イグニスさんが溜息混じりに大剣を肩に担ぎ直した。
「まあ、何だっていい。ゼフィル、いじめるのはやめろ。こいつ、怯えてるじゃねえか」
イグニスさんは俺を一瞥すると、ぶっきらぼうに尋ねた。
「お前、丸腰だな。戦ったことはあるのか?」
「……ありません」
俺は力なく首を横に振った。
「だろうな。剣ダコ一つねえ綺麗な手だ」
イグニスさんは「やれやれ」といった様子で頭を振った。
「放っておけば、次の魔物に喰われて終わりか。……ちっ、面倒なことになった」
彼は悪態をつきながらも、その瞳の奥にはわずかな同情の色が浮かんでいた。 こうして、短い沈黙の後、俺の運命を決める言葉が告げられた。
「俺はイグニス。こっちの理屈っぽい魔法使いがゼフィルで、神官がリリアだ」
イグニスさんは親指で仲間を指すと、顎で俺をしゃくった。
「お前の名前は?」
「……そめや、れん……です」
「ソメ……ああん?」
イグニスさんが顔をしかめる。
「言いにくいな。ソメヤレン? 長げえよ。……レン、か」
彼は少し考えると、勝手に納得したように頷いた。
「アレンだな。よし、お前は今日からアレンだ」
「えっ、いえ、レンですけど……」
「うるせえ、アレンの方が呼びやすい。文句あるか?」
あまりの強引さに、俺は口をパクパクさせることしかできなかった。 だが、ふと思う。 「染谷 廉」としての人生は、あのバス事故で終わったのだ。理不尽な上司に頭を下げ、作り笑いを浮かべ続けた人生は。 なら、ここで「アレン」として生きるのも、悪くないのかもしれない。 もう二度と、理不尽な『理』にただ流されるだけの人生はごめんだ。
「……いえ。アレンで、いいです」
俺はその新しい名を、受け入れることにした。
「よし。で、アレン。お前、これからどうするんだ?」
イグニスさんが尋ねる。俺には行く当ても、帰る方法も、この世界で生きる術もなかった。
「……わかりません」
「そうだろうな。まあ、見ての通り、この森は魔物だらけで危険だ。街まで一緒に行くか?」
渡りに船の申し出だった。俺は何度も、首がちぎれんばかりに縦に振った。
「ただし」 とイグニスさんは続ける。彼の力強い目が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
「足手まといはごめんだ。この世界で生きてえなら、自分の身くらい守れるようになってもらう。いいな?」
「は、はい!」
「よし、決まりだ。まずは剣の持ち方から、俺が叩き込んでやる」
その言葉は、拒絶ではなく、仲間として受け入れるという宣言のように聞こえた。 自分の意志がなく、ただ流されてきた俺に、初めてこの世界で与えられた明確な役割。 そのことに、俺の胸は静かに高鳴っていた。
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