異世界の司令塔、理へ反逆す:奇跡が繋いだ絆と共に

ジョウジ

第1話:理不尽の代償と、反逆の奇跡

「申し訳ございません! すべては私の不徳の致すところです!」


 条件反射だった。 相手が怒鳴る気配を感じた瞬間、脊髄が勝手に反応し、俺――染谷 廉(そめや れん)の上半身は90度に折れ曲がっていた。視界いっぱいに広がるのは、薄汚れたオフィスのタイルカーペットと、協力会社の部長の磨き上げられた革靴だけ。


「君一人のせいで、どれだけの人間が迷惑を被ったと思っているんだね?」 「面目次第もございません……」


 胃の奥がキリキリと痛み、ポケットに入れた錠剤のシートを服の上から握りしめる。 原因は、資料の数値ミス。コンマの位置が一桁ズレていた。俺のミスだ。だが、そのデータを確認し、承認したのは誰だ? 目の前で腕を組んで黙り込んでいる上司ではないか。


 いや、言うな。ここで俺が全部被れば、この場は収まる


 反論は喉元まで出かかっていたが、俺はそれを唾と一緒に飲み込んだ。 俺が泥を被れば、上司の顔も立つ。部長の怒りも矛先が定まって鎮火する。誰かが傷ついたり、場の空気が凍りついたりするよりはずっといい。 張り付いたような愛想笑いと、条件反射の謝罪。それが、染谷廉という人間が28年間で培った、唯一の処世術だった。


 ◇


 深夜の高速バス。車内には、安っぽい芳香剤と埃の匂いが充満していた。 一番後ろの座席に深く沈み込み、俺は窓の外を流れる街の灯りをぼんやりと眺めていた。ガラスに映る自分の顔は、死人のように青白い。


「……はあ」


 ため息と共に、噛み砕いた胃薬の苦味が口の中に広がる。 自己評価は常に低く、本心を隠して作り笑いを浮かべる。誰かの顔色を窺い、ただ流されるだけの、空っぽな人生。 もし、万が一、人生をやり直せるなら。今度は、もっと――。


 その瞬間だった。 ドォォォォン!! 凄まじい衝撃音が鼓膜を破り、車体が大きく跳ね上がった。 視界がスローモーションで回転する。砕け散る窓ガラスの氷のような冷たさ、ひしゃげた鉄骨の軋み、そして焦げたオイルの強烈な臭いが、一瞬で鼻腔を占拠した。 天地が逆転し、体が宙に浮く浮遊感の中で、俺は妙に冷静に考えていた。


 ああ、そうか。俺、死ぬのか


 不思議と恐怖はなかった。ただ、漠然とした後悔だけが胸を占めていた。 もっと、自分の意志で、自分の言葉で生きてみたかった、と。 それが、染谷廉の最後の記憶だった。


 ◇


 ――濃厚な血の匂いで、意識が覚醒した。


「……っ、う……」


 最初に感じたのは、まとわりつくような不快な熱気だった。日本の夏とは違う、もっと野性的でむっとする湿気。 背中には湿った腐葉土の感触。そして、それら全てを塗り潰すかのような、生々しい鉄錆のような血の悪臭。


 夢……か? バス事故の……続きか……?


 重い瞼をこじ開ける。 視界に飛び込んできたのは、蛍光灯の光でも、病院の天井でもなかった。見たこともない、鬱蒼とした森だった。聳え立つ木々は異様に太く、空を覆い尽くす葉の間から差し込む光は、昼間だというのにどこか薄暗く、禍々しい紫色を帯びている。


「……どこだ、ここ?」


 体を起こそうとして、自分の手が泥と血で汚れていることに気づく。 慌てて体を見下ろした。ヨレヨレのスーツ、泥だらけのワイシャツ、そして片方だけ脱げかけた革靴。 痛みはない。あの激突、窓ガラスが砕け散る音。俺は確かに死んだはずだ。なのに、なぜ無傷で、こんなサウナのような森にいる?


 立ち上がろうとして、足元のぬかるみに革靴が沈み込んだ。 グチュリ、という不快な音。スーツの背中が汗と泥で肌に張り付く。 その生々しい不快感が、ここが夢の世界ではないことを残酷なまでに告げていた。


 まさか……。人生を、やり直せるなら、なんて……


 死ぬ間際に願った、ありえない願望が脳裏をよぎる。そんな都合のいい話があるものか。 思考が堂々巡りを始め、意味もなく叫び出したいような衝動に駆られた時だった。


「くそっ、囲まれた! リリア、回復を!」


「はいっ! でも、魔力が……もうほとんど残っていなくて……!」


「小賢しい人間どもめ! 皆殺しにしてくれるわ!」


 甲高い金属音と獣の咆哮、そして人の怒声。 俺以外にも、誰かいる! それが安堵なのか、新たな恐怖の始まりなのかは分からない。だが、この訳の分からない状況で、唯一の手がかりであることは確かだった。俺は、革靴が滑るのも構わず、声のする方へ走った。


 茂みを抜けた先で見たのは、およそ現実とは思えない光景だった。


 全身を屈強な鋼鉄の鎧で固めた、熊のように大きな赤髪の男が、身の丈ほどもある巨大な両手剣を振り回している。 その背後では、白い清楚なローブを纏った栗色の髪の女性が、木の杖を握りしめ、必死に祈りを捧げていた。彼女の周りには、俺の知らない不思議な原理で、弱々しい光の粒子が蛍のように瞬いては消えていた。 そして、その隣。黒衣のローブに片眼鏡(モノクル)をかけた知的な青年が、鋭い目で戦況を分析しながら、手から小さな火球や風の刃を放っている。


 彼らを取り囲んでいるのは、緑色の肌に醜悪な顔をした、棍棒を持つ二足歩行の怪物――ゴブリンだ。その数は十匹を超え、明らかに三人は絶望的な状況に追い詰められていた。


「イグニスさん、もう持ちません!」


 ローブの女性が悲鳴に近い声を上げる。


「弱音を吐くな、リリア! ゼフィル、大技はまだか!」


 鎧の大男――イグニスと呼ばれた男が叫ぶ。彼の振るう大剣は確かにゴブリンを薙ぎ払うが、多勢に無勢、その動きには明らかな疲労が見えた。


「詠唱が……! 邪魔が入る……!」


 黒衣の青年――ゼフィルが、忌々しげに舌打ちする。


 俺がここにいる意味などない。関われば死ぬだけだ。頭ではそう理解しているのに、足が動かなかった。 彼らの、最後まで諦めない瞳から目が離せなかった。


 死ぬ……。あの人たち、死んでしまう


 それは、社畜として感情を殺して生きてきた28年間で、感じたことのないほど純粋な衝動だった。 助けたい。彼らが死ぬのを見たくない。理屈じゃない。ただ、そう強く願った。


 その瞬間、世界がスローモーションになった。 ゴブリンの一匹が、背後から無防備なローブの女性に忍び寄り、棍棒を振り上げる。絶体絶命。


 やめろ!


 俺が心で叫んだ、その時だった。 脳の奥で、何かが焼き切れるような熱さと共に、世界を構成する「法則」が軋む音がした気がした。


 同時に、体の奥底にあった「5つの灯火」のうち、1つがフッと消えるような、奇妙な喪失感を覚えた。


 俺の意志が、この世界の『理(システム)』そのものに干渉し、強引に書き換えたかのように――たった一つの「きっかけ」が連鎖(ドミノ)を始めた。


 ゴブリンの足元にあった木の根が、まるで意思を持った蛇のように跳ね上がり、その足を掬った。 「グギャッ!?」 無様に転倒したゴブリンが地面を激しく叩く。その衝撃で生じた振動が、ぬかるんだ地面を波打たせた。 その波紋は、イグニスに襲いかかろうとしていた別のゴブリンの足元へ伝わり、ツルリと足を滑らせる。バランスを崩したゴブリンの首筋に、イグニスの大剣が吸い込まれるように叩き込まれる。


「運がいい!」


 イグニスはそう叫んだが、連鎖は止まらない。 足を滑らせたゴブリンが手放した石礫(いしつぶて)が、ありえない軌道で跳ね返り、ゼフィルの詠唱を邪魔しようとしていた別の個体の後頭部に直撃したのだ。


「……ありえない」


 黒衣の青年が呆然と呟く。 たった一度の「願い」が引き起こした、ピタゴラスイッチのような奇跡の連鎖。それによって生まれた致命的な隙を、歴戦の冒険者である彼らが見逃すはずがなかった。


「今だ! 形勢逆転だ!」


 イグニスの咆哮を合図に、彼らは反撃に転じた。 俺が魔法を使ったわけではない。ただ、俺が「助けたい」と願っただけで、世界が彼らにとって最も都合のいいように書き換わった。


 やがて、最後のゴブリンが断末魔の叫びを上げて倒れた。 森に静寂が戻る。三人は荒い息をつきながら、互いの無事を確認していた。


「助かった……が、奇妙な現象だったな。リリア、魔法か?」


「いいえ、私の魔力とは違う……。ただ、強烈な『意志』を感じたような気がします」


「フン、偶然……にしては、出来すぎているな」


 ゼフィルが黒衣を払いながら、鋭い視線を周囲に向けた。


「これほどの連鎖的な事象が、自然に起きる確率など天文学的数字だ。誰かが、意図的に『理』を歪めたとしか思えん」


 俺は、茂みの中で自分の掌を見つめていた。 心臓が早鐘のように鳴っている。脳の奥が、使いすぎた後の筋肉のように熱を持って痺れている。 そして、あの「何かが減った」感覚。 今のは、一体なんだ? 俺が……やったのか?

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