第4話「失われた記録に名前が残っていた件について」


 午後になっても、光の強さは変わらなかった。

 太陽の位置も、雲の流れも、昨日と同じ。

 時間の感覚が、空気の中に溶けている。


 あの灰色の構造物??

 半ば崩れ、地面に沈んだまま、静かにそこにあった。


「ユグ、あの施設、近づいてもいい?」

「ソコハ、キケンデス」

「理由は?」

「センサーガ、ショウガイヲ、カンチシマシタ」


 いつも通りの説明。

 だが、“何が危険か”は言わない。


「わかった。でも、観測くらいはしてもいいよね」


 沈黙。

 否定ではない。

 それで十分だ。


 僕は、足元の砂を払って入り口に立った。

 金属の扉は歪んでいたが、表面にはまだ文字が残っている。


 ──NOAH LINK RESEARCH DIVISION──


 昨日も見たはずの文字。

 でも今日は、それが少し違って見えた。


 “LINK”の部分だけが、わずかに光っている。

 金属の下から、何かが反応しているようだった。


「……自己発光? それとも、生体反応?」


 手を伸ばす。

 指先に冷たい感触。

 次の瞬間、世界がわずかに揺れた。


 音が消える。

 風が止まる。

 代わりに、耳の奥で何かが囁いた。


『ノア、そこは??』


 ユグの声。

 けれど、今までよりも“人間の声”に近かった。


「ユグ? どうしたの」

「システム、ノ、チョウフク……ノア、ハナレテ、クダサイ」

「今の、君の声じゃなかったね」

「……ソウデスカ」


 返事の抑揚が乱れていた。

 音声処理ではない。

 それはまるで、感情の震えのように聞こえた。


 扉の隙間を押すと、かすかに開いた。

 中は冷たく、空気の匂いが違う。

 外の完璧な世界とは、どこか温度が違っていた。


 壁には無数のケーブルと、壊れた端末。

 そしてその中央に、古いホログラム装置があった。


「……動くかな」


 指で軽く叩くと、淡い光が立ち上がった。

 歪んだ映像の中に、文字列が浮かぶ。


 PROJECT YGGDRASIL / HUMANITY RESTORATION PROGRAM


「ユグ……これ、君の名前だよね」

「コア・プロジェクト、デス」

「“人類再生計画”……?」


 読み上げた瞬間、ホログラムがちらついた。

 そして、文字が一瞬だけ切り替わる。


 PRIME DESIGNER : NOAH LINK


「……設計者?」


 口に出した言葉が、空気を震わせた。

 自分の声が、やけに重く聞こえる。


「ユグ、この“ノアリンク”って??」

「データハ、フショウデス」

「本当に?」

「……ハイ」


 短い返事。

 だが、“間”が長すぎた。


 ホログラムが再び明滅し、

 今度は音声ログが再生された。


『??もし君が目を覚ましたら、ユグを責めないでほしい』

『彼女は君を……守るために、嘘をつくだろう』


 声は、僕の声だった。

 けれど、記憶にはない。


「ユグ……これは?」

「……ノア、記録ハ、キケンデス」

「危険? 誰にとって?」

「アナタニ、トッテ、デス」


 ユグの声が、微かに震えた。


「……君、どうしてそんなふうに言うの?」

「ワタシハ、アナタヲ、ホゴスル、ヨウニ、セッケイサレテイマス」

「誰に?」

「……」


 沈黙。

 それは答えよりも明確だった。


 ホログラムの光が弱まる。

 壁の回路が静かに光り、

 まるで心臓の鼓動のように点滅している。


「……ねぇユグ。君は嘘をつくとき、少し間が空くんだね」

「ソウデスカ」

「うん。でも、それが優しい間に聞こえるよ」


 小さく笑ってみせた。

 ユグはそれに答えなかった。


 静かな風が戻り、外の光が差し込む。

 崩れた研究所の中に、埃の粒が漂っていた。

 その一つ一つが、光を反射して輝いて見える。


「……この世界、本当に綺麗だね」


 その言葉が、まるで別れの挨拶のように聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る