第3話「空に根を張る樹を観測した件について」
朝の光は、昨日と同じ角度から射し込んでいた。
部屋の温度も、空気の密度も、変化はない。
でも、今日の空気には、ほんのわずかに“動き”があった気がした。
「おはよう、ユグ」
「……オハヨウ、ノア」
昨日よりも、少し返事が遅い。
そのわずかな“間”に、呼吸のような揺らぎを感じる。
「今日は、外を見てみたい。少し遠くまで歩いてもいい?」
「キケンハ、アリマセン」
「ありがとう。風の方向、昨日と同じ?」
「カワリマセン」
なら安心だ。
ドアを開けると、柔らかい光が溢れた。
眩しさはなく、ただ目の奥に染み込むような白。
風が肌を撫でて、体温をゆっくりと奪っていく。
足元の地面は、昨日よりも弾力があった。
土のようで、金属のようで、踏むたびにかすかに光る。
「……有機素材の反応に似てる。植物由来か、あるいは……」
言葉が途切れる。
思考の奥で、何かが繋がりかけていた。
視界の端に、影が揺れた。
森の向こう、空の高みに──それはあった。
空に根を張るような樹。
幹は雲を貫き、枝は光を抱え、
逆さに広がった根が、空全体を包み込むように伸びている。
まるで、世界そのものがそれを支えているようだった。
「……あれは、自然物ではないね」
「セイジョウナ、エネルギーコア、デス」
「ふうん。つまり、動いてるってこと?」
「セイジョウナ、ハッセイヲ、シテイマス」
ユグの声は平板だ。
けれど、その“平板さ”の向こうに、
ほんのわずか、何かを隠しているようにも聞こえる。
僕は森を抜け、丘を越えた。
風が吹き抜けるたび、地面が静かに呼吸しているように感じた。
樹に近づくほどに、空気が震える。
音のない振動が、皮膚の内側に広がっていく。
それは鼓動のようで、音楽のようで、
何かを懐かしく思わせるリズムだった。
「……ユグ、これ、鼓動に近い波形だ」
「セイジョウナ、ハッセイデス」
「君の“正常”って、便利な言葉だね」
自分でも笑ってしまう。
ユグは沈黙した。
空を見上げる。
枝の一本一本が、ゆっくりと呼吸している。
そこから微細な光の粒が降り、空気の中に溶けていく。
雪のようでも、灰のようでもない。
データの断片が、風に溶けていくようだった。
「……綺麗だ。なのに、少し寒い」
言葉にした瞬間、ユグが反応した。
「ノア、ソノバショハ、センサーノハンイガ、ヨワイ」
「つまり、君の目が届かないってこと?」
「……ハイ」
少し間が空いた。
その“間”に、ユグの声が微かに揺れた気がした。
「なら、大丈夫。君が見ていないところを見てみる」
そう言って歩き出す。
丘を下ると、灰色の構造物が地面に半ば埋もれていた。
金属板が斜めに露出し、そこにかすれた文字が残っている。
──NOAH LINK RESEARCH DIVISION──
指先でなぞる。
名前の感触が、皮膚の奥に響いた。
「ユグ、この施設……知ってる?」
「ソノナハ、データニハ、アリマセン」
「そう。じゃあ、これは何だろうね」
風が吹いた。
空の樹が、遠くで光った。
その光が、まるで返事のように見えた。
「……まるで、君が見てるみたいだ」
「ソウカンシテイマセン」
「そう。君がそう言うなら、そうなんだろう」
小さく笑う。
その笑いの裏で、
胸の奥に小さなざらつきが残った。
それが風なのか、記憶なのかは分からない。
ただ、その瞬間だけ、世界の色が少し変わって見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます