第5話 母の再生
秋の風が窓を鳴らした。
静かなアパートの一室で、美優は洗濯物を畳んでいた。
仕事帰りの制服のまま、何も考えずに手を動かす。
考えてしまえば、心が崩れそうだから。
あの日
——蓮と幸太郎が玄関に立っていた日のことが、まだ夢のように頭に残っている。
扉を開けた瞬間、胸の奥で何かが震えた。
でも、拒絶した。
「帰ってください」と言うしかなかった。
彼らの顔を見た瞬間、愛しさと憎しみと後悔が一気に押し寄せ、
息ができなくなったのだ。
夜、ソファに座ると、静けさが痛いほど広がる。
幸太郎のいない部屋。
笑い声の消えたリビング。
けれど、美優は泣かなかった。
涙は、もう何度も流した。
スマホには一通のメールが届いていた。
送り主は蓮。
件名は「お願い」。
幸太郎のこと、しばらく俺の両親に預ける。
学校のこともあるし、俺じゃどうにもできない。
俺は少し、遠くで考えたい。
どこへ行くかは言えないけど、もう少し時間をください。
ごめん。
俺は父親としても、人間としても、失敗した。
美優は、長い間その文章を見つめていた。
怒りも、哀れみも、もう湧かなかった。
ただ、静かにスマホを伏せ、目を閉じた。
「……そう、勝手にすればいい」
そう呟いた声は、震えていた。
数週間後。
職場の帰り道、近くの公園で遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえた。
その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
「幸太郎?」
振り向くと、砂場の端に見覚えのある後ろ姿。
蓮の母・和代が付き添っていた。
「……お義母さん」
「美優ちゃん……」
二人の目が合った瞬間、言葉が詰まる。
和代は優しく微笑んだ。
「ちょうどいいところに。幸太郎、ママだよ」
幸太郎は一瞬固まり、そして駆け出した。
「ママ!」
抱きしめた瞬間、時間が止まった。
小さな体の温もりが、胸の奥の痛みをゆっくり溶かしていく。
でも次の瞬間、美優はその腕を静かにほどいた。
「……ごめんね。ママ、あなたとは一緒に暮らせないわ」
「どうして?もうミサさんいないんでしょ?パパも——」
「パパは……遠くに行ったの」
幸太郎は涙をこらえながら見上げた。
「ぼく、もう悪いこと言わない。ママのこと大好きだよ」
美優は微笑んだ。
「ありがとう。でもね、ママもまだ元気じゃないのよ」
和代がそっと幸太郎の肩を抱く。
「ほら、行きましょう。ママ、お仕事疲れてるんだから」
幸太郎は名残惜しそうに手を振りながら、祖母に連れられて帰っていった。
夕暮れの公園に、風が吹き抜ける。
美優はその場に立ち尽くし、空を見上げた。
オレンジ色の光がまぶしくて、涙がこぼれた。
冬が訪れた。
美優は新しい職場で働き始めていた。
忙しい毎日が、心の隙間を少しずつ埋めていく。
夜、部屋に帰ると、テーブルの上の花瓶に差した一輪のガーベラが目に入る。
それは、幸太郎が好きだった花だった。
そのガーベラを見つめながら、美優は初めて、静かに笑った。
「……ありがとう」
一方その頃、北の港町。
小さな運送会社で働く蓮は、雪の降る中を黙々と荷を運んでいた。
港の風は冷たく、頬を刺す。
仕事終わり、食堂のテレビからニュースが流れた。
「元OLの女性が投資詐欺容疑で逮捕。被害総額は——」
画面に映った女の顔を見て、蓮は手を止めた。
——ミサだった。
数秒間、時が止まった。
湧き上がるのは怒りでも哀れみでもなく、ただ空虚だった。
「……結局、そういう人間だったんだな」
呟く声は、ため息のように白く溶けた。
過去にすがりついた自分が、どれほど愚かだったかを思い知る。
蓮はカウンターに硬貨を置き、外に出た。
雪が静かに降り続いている。
空を見上げながら、小さく呟いた。
「美優……どうか幸せでいてくれ」
同じニュースを、美優も職場の休憩室で見た。
ミサが連行される映像。
インタビューの記者たちの声が遠くで響く。
彼女は無言のままスマホを閉じ、深く息をついた。
——ざまあみろ、なんて言葉は出てこなかった。
ただ、一つの時代が完全に終わったのだと、静かに感じた。
窓の外には春の光。
桜が風に舞い、空を染めていた。
「……これで、ようやく前に進める気がする」
その言葉に、自分でも驚くほど穏やかな笑みがこぼれた。
数週間後。
美優の元に、消印だけが押された一通の封筒が届いた。
中には、便箋一枚と、海辺の写真。
幸太郎の入学、おめでとう。
ミサのことはニュースで知った。
でも、彼女を責める気にはなれなかった。
人は、間違える。俺も、その一人だった。
どうか幸太郎を、まっすぐに育ててほしい。
俺は遠くで、祈っている。
――蓮
便箋を読み終えた美優は、ゆっくりと息を吐いた。
風がカーテンを揺らす。
差し込む光の中で、彼女は初めて心の底から微笑んだ。
「……さよなら、蓮」
その言葉は、悲しみではなく、静かな解放の響きを持っていた。
窓の外で、桜の花びらが風に舞う。
そしてその中で、美優の春が、ようやく始まった。
壊れた家の、その先に てつ @tone915
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