35.進むために、変わっていく

「……と、そんな感じです」


 トントン、と手に持った紙の束を机の上で束ね、春陽はクリアファイルに挟む。そしてそのクリアファイルも封筒に入れて、鞄の中に仕舞ってしまった。

 対面に腰かけた陽葵はまだ、まじまじと手に持った紙の資料を眺めている。


 普段パトロール以外では来ない方面にある喫茶店は、昼間だというのに二人以外の客はいない。商売としては心配になるが、そういった意味ではこういう話をするのにはもってこいの場所だった。

 一階が喫茶スペース、二階が物置らしく、ちょうど階段の陰になる部分に二人は腰かけていた。春陽のお気に入りの席らしい。


「なにか気になる点でもありました?」

「……いえ、個人の資料ってこんなに詳しく書かれていたんだなって、思いまして」


 諸々の手続きを済ませ次第、貴羅と入れ違いでこの地区に住むことになるという吸血鬼の資料には、びっしりと文字が並んでいる。

 生年月日から、生前の住所、生い立ち、架空の生き物との接触の有無、家族構成、その家族についての生い立ちや接触の有無、吸血鬼かハンターか、葬儀の様子、交友関係などなど……。

 この資料だけで一冊の本を書けるのではないか、というほどの密度だ。

 その左上には、顔写真の代わりに似顔絵が描かれている。

 あどけなさの残る顔。まだ十八歳らしい。貴羅が吸血鬼になった歳よりも若い。なんなら凛よりも年下だ。胸が痛んで、思わず陽葵はまぶたを伏せた。


「見てわかると思いますが、個人情報と機密情報の塊なので誰にも見せないでください。一枚だけ落っことすのも駄目です」

「私のことをなんだと思っているんですか」

「棗さんがそういうことをする人だとは思っていませんが、新人には伝える必要があるので、念のため言ったまでです」

「なるほど……?」


 胡散臭い笑顔に一応はうなずきながら、陽葵はミルクティーを口に含んだ。

 まろやかな甘さに、少しだけ心がほぐれる。


「私や貴羅についての資料も、こんな感じなんですか?」

「そうですね。棗さんや冬樹さんにお見せすることはできませんが」

「変な感じですね、本人には見せられない、その人についての資料って」

「本人も知らないことが書かれていたりするので」

「例えば?」


 陽葵の問いかけに、うーん、と春陽は顎に手を置く。


「俺が今まで見てきた中だと、そうですね……。事故で亡くなったと言われていた親が、実は吸血鬼になっていた、吸血鬼になった子供、とか。ずっと人間だと思っていたのに、実は養子でハンターの子でした、とか。あるあるだとそのあたりですかね」

「それって、本人に伝えるんですか?」

「必要があれば。必要がなければわざわざ伝えません」

「私たちにもそういうのがあったりするんですか?」

「さあ? 俺が伝えていないってことは、そもそもそういったものがないか、あっても必要がない、ということなので」

「……なんか、いやですね、こういうの」

「そうですか」


 言って、春陽はカップに口をつける。


「この資料は、あくまでハンター側からの視点で書かれたものです。都合の悪い人は、津語の悪い人として書かれています。だから、必要がなければ知らないほうがいいんです。嫌でしょう、自分が大切に思っている人について、悪口が書かれているのは」

「……書かれていたんですか」

「例えばの話ですよ。安心してください」


 まあだから、とカップの中で揺れる赤茶色の液体を眺めながら、春陽は続ける。


「資料を読み込むときは、それを念頭に置いておいてください。資料はあくまでも、判断材料のひとつに過ぎませんから」

「わかりました」

「しつこいようですが、自室など、必ず吸血鬼が入ってこられない場所で読んでくださいね」

「はい」


 陽葵はうなずいて、春陽と同じように資料を仕舞う。

 そしてひとつ、息を吐く。


「ハンターとして初めて吸血鬼を担当することになるんですね」

「緊張しますか?」

「少し」


 陽葵は小さく笑う。

 まだザラッとしか資料に目を通せていないが、それでも家族や友人から愛されて育ってきたのがよくわかった。

 そんな子が、吸血鬼になって一人、すべての関係を断ち切らされる。

 誰も幸せになれない、人間としての終わり方。

 そこから始まる最初の五年を担当するのだ。緊張しないはずがない。

 それに、と陽葵は思う。

 貴羅と離れた直後に担当することになる。

 自分はそれまでにうまく心を切り替えられるのだろうか。


「そのうち、慣れますよ」

「春陽さんにも、慣れていない時期があったんですか?」

「対吸血鬼に関しては、見守るよりも戦闘のほうが多いので、まだだいぶ不慣れですが」

「ああ、まあ、そうですよね」


 出会った当初の貴羅に対する春陽の空気を思い出して、陽葵は苦笑する。


「苦手なことは、得意な人にコツを訊けばいいんです」

「訊いたんですか?」


 意外な発言に陽葵は首を傾げて春陽を見る。

 春陽は、困ったような、はにかむような、なんとも言えない笑みを浮かべた。


「吸血鬼全体に対しての気持ちは変わりませんし、そこでなにかコツを訊こうとは思いませんが。今まで後輩はいても直接の部下はいませんでしたし、殺したくない吸血鬼ができたこともありませんでしたから」


 陽葵はゆっくりとまばたきをする。

 ここに貴羅がいたらきっと、お互いに顔を見合わせていただろう。

 その空気を察した春陽が、わざとらしく咳払いをする。


「悪いですか」

「いや、なんというか……変わりましたね、春陽さん」

「俺をなんだと思っていたんですか」


 春陽はため息を吐いた。


「知っていると思いますし、何度でも言いますが、俺はどちらかと言えば狩る側のハンターです。見守る側が今のハンターの通常の業務とは言え、それで問題を起こすから始末書を書き続けていたわけです。それなのに上司として立たないといけないんですから、わかる人に訊いて当然でしょう」

「……なんというか、真面目ですね」

「よく言われます」


 嘘吐け、と、出会ったばかりの陽葵なら思っていただろう。でも今は、根は真面目な人なのだろうと、そう思った。


「でも意外です。春陽さんって、他人からのアドバイスをちゃんと聞くんですね」

「誰でもってわけではないです、流石に。見習いの頃からお世話になっている人がいるんですよ。俺にとっての、もう一人の祖父みたいな人ですね。年齢的には父親くらいですけど」


 懐かしむように、春陽の目元が和らぐ。

 春陽にとっての祖父のような人、ということはそれだけ大切に思っている人なのだろうと、相手を知らない陽葵にも容易に想像できた。


「優しい方なんですか?」

「さあ。少なくとも、甘やかすタイプではなかったですね」


 チラリと春陽は腕時計を見る。つられて陽葵もスマートホンで時間を確認した。

 午後四時。

 まだ貴羅が起きてくるまでに時間はあるけれども、諸々の準備や終わらせておきたい仕事のことを考えると、そろそろいい時間だ。


「そろそろ出ますか?」

「そうですね」


 春陽も同じだったようで、お互いに荷物をまとめて席を立つ。

 先払いのお店だったので、カップだけ返却口に戻して、店員に会釈をしてからお店を出た。

 数歩歩いたときだった。

 ふわり、温かい風が吹いて、そのあとを追うように陽葵は振り向いて、小さく声を漏らした。


 一本の大きな木がどっしりと腰を下ろしているだけで、さっきまであったはずの喫茶店の影も形もない。

 陽葵は顔ごと動かしてあたりを見回すが、それでもあの喫茶店を見つけられない。


「どうかしました?」


 うしろからかけられた声に、陽葵は振り向く。

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、春陽がこちらを見ていた。


「喫茶店が、見当たらないなって、思いまして……」

「言っていませんでしたっけ」

「なにをですか」

「あのお店の店主、魔法使いなんですよ。そこそこ気まぐれなね」


 陽葵はゆっくりとまばたきをする。


「魔法使い」

「いるのは、知ってますよね?」

「それは、もちろん……、お会いしたのは初めてでしたが」


 基本的にハンターは、管轄外の架空の生き物とはあまり接点がない。

 接点がないから、知識だけはあるけれども、すれ違ったところでほとんど気がつかない。特に陽葵のような吸血鬼ハンターは、夜に生きる吸血鬼を相手にしているからこそ、昼にも活動する生き物への気づきはほぼ皆無だ。


「本当は路地裏で話すつもりだったんですけど、今日前を通ったら開いていたので、ちょうどいいかな、と思いまして」

「だから、人がいなかったんですか」

「そうですね。上司の知り合いなんです、あそこの店主。それに、一定の信頼関係を吸血鬼ハンターと結んでもいる。だから入れてくれましたが、通常は同族と、一部のハンターしか入れてはくれません」

「なるほど」


 この書類は機密だなんだと言いながらも、いつ他人が入ってくるかわからない場所で話すのか、と違和感を覚えていたが、納得をした。

 血液パックを作成するために人狼から血液を提供してもらっているように、他の架空の生き物の一部と、手を組むことがある。

 店主はその、手を組んでいる一部の架空の生き物だった、ということだ。


「他の架空の生き物と接点を持っておくのも、ハンターとしてうまく生きるコツですよ」


 そう言って、春陽はニコリと笑った。

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