Day3

 この世界は、逆さまだ。手を取り合うべき者たちが銃口を向け合い、信じる神が違うだけで殺し合う。ただ、私たちが気づいていないだけで。世界は反転しているんだ。

 私にはよくわからない。

『外国難民受け入れの規制を』

『移民は故郷に帰れ』

『社会にもっと奉仕しろ』

『消えてくれ』

 どうして、こんなこと言われるのか。どうして、みんな謝るのか。酸素を吸うだけで迫害されるこんな社会で。どうやって生きていけばいいのか。

 だから、死のうと思っていた。あの、博物館で。

『………生きてる?』

 だから、不思議だった。どうしてあの時、彼に出会えたのか。

『たすけて。』

 どうして私の口から、あんな言葉が出たのか。



 今日も今日とて雨。でも私は、雨が好きだった。何もかも洗い流してくれるから。ベランダが好きだった。いつでも飛び降りることができるから。でも、あるけど。

 君が帰ってきた時に、すぐ気づけるから。

「ただいまー、キコー?」

 帰ってきた。嬉しいけど、寝たふりをする。気づいてないふり。

「またベランダー?風邪ひくよー。」

 かくれんぼする幼児のように、じっと待つ。にやけるのを抑えられない。想像でカウントダウン。さん、にぃ………

「キコ、ただいま。」

 瞼を開く。目の前には、大好きな人がいた。

「おかえり、ジオ。」



「今日は卵ライスー!」

「………オムライスだよね。」

 三日連続である。そろそろ卵が切れそうだから、明日は久しぶりにパスタでも作ろうか。

「今日は大変だったよ。新人が有機溶剤の処理の仕方を間違えて、外に危うく流出するところだったんだよ。」

「ありゃま。ポンコツかな?」

「いやあ、僕も新人の頃はあんな感じだったよ。これからが楽しみだ。」

 最初は彼も、下っ端の作業員だったのになぁ。光陰矢の如し。時間が経つのは早い。

 ………そういえば。

「もう、三年以上経つんだ。」

「?」

 私の故郷で戦争が始まって、三年以上が経つ。運よくイギリスに避難できた私だけど、両親と妹は、初期の攻撃に巻き込まれて死んだ。

「………帰りたい?」

「どうだろ。」

 ここに来てから、たくさんの地獄に遭った。戦争難民として迫害されたし、空腹も味わったし、何より孤独だった。帰りたいと、何度でも思った。だけど。

「別に、いいかな。」

「どうして?」

「今が、一番幸せだから。」

 そっか、と、彼は微笑んだきり、何も言わなくなった。私も食べよう。

「幸せの味だなぁ。」

 ポツリと、自分の口からこぼれ落ちた。



 急な出来事だった。私が確か、十六歳の時。首都のビルで、一発の爆発音がした。

 よく、覚えていないけど。

「逃げろ!」

「早く、キコ、リル、あんたたちだけでも!」

 そうだ。私の妹は「リル」だ。ずっと一緒にいた。絵本を読むのが好きだった。

「いけ!」

「でも、お母さん!お母さ。」

 爆撃音。建物が天井から崩壊していく。妹が、両親の名前を呼んだ。両親はこの時、瓦礫の下にいた。二人で、持ち上げようとした。必死に。呼びかけに答えない二人の、顔が見たかった。でも、無理だ。私は走るしかなかった。人生で初めて、死を近くに感じた。

 避難船に乗った。船内では感染病が流行っていた。何人も死んだ。

 その中の一人が、当時まだ六歳のリルだった。

 高熱が出て、私は船医に診てもらおうと思った。医者はため息をつき、「手遅れだ」としか言ってくれなかった。私は妹に、何もできない。だから代わりに、手を握った。冷たくなるまで、握っていた。

 私は、独りになっていた。

 そして今まで、忘れていた。



 生きるって言うのは、誰かから何かを奪うことだ。

 なんとなく、これまでの経験を通してそう思うようになった。

 酸素を空気から奪って呼吸する。

 動物の命をもらって食事をする。

 いつでも、どこでも。私たちは誰かを殺し、何かを奪っている。

 そして、与えている。彼もそうだ。生きるから死ぬんじゃない。死ぬから生きる。死んで、また与えるために生きているんだ。

 だから私は生きる。

 天国に行ってから、私の家族とまた笑うために。



 今日は、空で星が降るらしい。家の電気を全部消して、二人でベランダに出た。

「雨、止んで良かったね。」

「本当。やっぱり神様は本当にいるんだねえ。」

 母なる夜空を、じっと凝視する。まあ例によって、流星群は全然見れないわけだ。首が痛い。

「休憩しよ………あ。」

 ここで、隣のアパートの人もベランダで空を見ていることに気づいた。黒人の女の人だ。よくこちらの家に来て、お菓子を差し入れしてくれる。目があって、手を振ってみる。彼女は少し驚いてから、嬉しそうに笑ってくれた。楽しい。

 この人にも、違う生き方があるのだろう。過去に何があっても、彼女は「彼女」だ。誰にもなれないし、誰も彼女になることはできない。

「はあ、なんか最近深いことばっか考えちゃうな。」

「厨二病?」

「違う。」

 いや、そうかもしれないけど。

「生きてるとさ、みんな不安になるから。自分と違う人を攻撃したり、否定したりするけど。」

「うん。」

「生きるって、自由なんだな、って。」

 君と出会ったから。私は、それに気づけた。

「そうだね。………あっ。」

 彼が目を見張って、まさかと思う。

「流れ星!」

「えっ!」

「一瞬だけど、見えたよ!」

「嘘ぉ!」

 本当に、何も私を待ってくれない。光も、時間も。でも、それでいい。

「何か、願い事した?」

「え、一瞬だったから、三回は願えなかったけど………」

 そりゃそうだ。流れ星が見えるその時間で、三回も願いを唱えるなんて。できないけど。

「『いつまでも「普通」でいられますように』。」

 ハッとした。このままがいい。レンガと屋根だけでできたような素朴な家に、このまま二人で生きていきたい。素っ気ないし、夢のない願い事だけど。私はこれを、世界一の贅沢だと思った。

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