第5話 仕事と訓練
翌朝。
マンションのキッチンから、香ばしいトーストの匂いがふわりと部屋に広がった。
玲奈は眠気の残る目をこすりながら、ゆらゆらとリビングへ姿を見せる。
テーブルには既にパンとサラダが並べられており、結がちょうどマグカップを置いたところだった。
「おはよう! 今日もちゃんと起きられたね」
「……はい。トースターの“カチャン”って音で無理やり起きました……」
玲奈は寝癖を手で押さえつつ椅子に座り、その様子に結は思わず笑みをこぼす。
「今日も事務ですよね……はぁ」
「まあね。でも、もうだいぶ慣れてきたじゃん?」
「それは……そうですけど。やっぱり訓練もしたいです」
ふくれっ面の玲奈。朝から感情が顔に出すぎていて、結はふっと吹き出した。
「じゃああとで、訓練場が空いてる日、七海さんに聞いてみよっか」
「……ほんとですか!? やった!」
さっきまで半分寝ていた顔が、一瞬でぱっと輝いた。
二人は朝食を終え、スーツに着替えて水戸支局へ向かった。
水戸支局・事務室
「おはようございまーす……」
「おはよう。今日も頼んだぞ」
書類を抱えた七海が手を軽く振る。
二人は席に着き、静かな事務室にキーボードの軽い打鍵音が響き始めた。
——10分後。
「……先輩……」
「ん? どうしたの」
玲奈は椅子ごとすーっと結の席へ寄り、書類をそっと差し出した。
「ここ……またわからないところが……」
結は苦笑しながら紙を受け取る。
「ここはね、こう書くの。……ほら」
「なるほど……。先輩ほんと頼りになります……」
「玲奈が覚える気あるだけで十分だよ」
そこへ七海がにやにやしながら歩いてきた。
「相変わらず仲いいね、君たち」
「仲がいいというか……玲奈が甘えてくるだけです」
「ひどいっ! 私そんなつもりじゃないのに!」
玲奈の抗議に、七海は肩をすくめた。
「はいはい。午後、ちょっとした“お楽しみ”を準備してるから、午前はちゃんと働くように」
「お楽しみ……?」
「なんですかそれ!?」
食いつく二人をよそに、七海は意味ありげな笑みだけ残して去っていった。
昼休み
支局の外のベンチで、二人はサンドイッチを頬張っていた。
「七海さんのお楽しみって何だろうね」
「ぜったい訓練です。間違いないです」
「なんでそんな自信あるの?」
玲奈はむんっと胸を張る。
「だって七海さんって、クールに見えて実は優しいじゃないですか」
「……まあ、そういうとこあるよね」
風が吹き、玲奈の髪がふわっと揺れる。
そのとき、支局のスピーカーが鳴った。
『結・玲奈、十三時に訓練場へ来るように』
玲奈は固まり——次の瞬間、ぱっと結の腕を掴んだ。
「先輩!! これ絶対訓練ですよ!!」
「はいはい……落ち着きなよ」
口ではそう言いながらも、結も少し胸が高鳴っていた。
午後・訓練場入口
七海が腕を組み、落ち着いた表情で待っていた。
「よし、ちゃんと来たな。——今日は久しぶりの実戦形式訓練だ」
玲奈はきゅっと拳を握り、ガッツポーズ。
結は深く息を吸って気持ちを整える。
「ようやく……体を動かせるね」
「じゃあ——制限時間は五分。どちらかが相手に“触れたら”勝ち。
結、玲奈……準備はいいか?」
七海の声が訓練場に静かに響く。
「もちろんです!」
玲奈が軽く跳ねるように構え、目を輝かせる。
結は肩を回しながら笑った。
「久しぶりだから、手加減してよ?」
「しませんよ先輩! 今日こそ取りますから!」
「はいはい……言うようになったね」
ピッ——。
合図とともに、玲奈が勢いよく踏み込む。
靴底が床を滑り、結へ一直線に距離を詰める。
「先輩っ!!」
「速っ……!」
結は紙一重で横に避ける。
玲奈の腕が空を切り、軽い風が生まれる。
そのまま玲奈はターンし、即座に次の一手へ。
——本当に動きが無駄なくなっている。
(成長してるな……)
結は冷静にその軌道を見極める。
「ほらほら、止まってたら捕まえますよ!」
「じゃあ捕まえてみなよ」
挑発に、玲奈の目がさらに光る。
低い姿勢から勢いよく跳び上がり、予想外の角度から腕が伸びる。
「え——!?」
結は反射で後方へ飛び退いた。
玲奈は着地し、悔しそうに唇を噛む。
「惜しかった……!」
「いや、ほんとびっくりしたよ。前より鋭い!」
褒められた玲奈は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「そ、それは……先輩に追いつくためですから……!」
「いい心がけだね」
二人の呼吸が徐々に荒くなる。
七海が腕を組んだまま言う。
「——残り三分」
玲奈の表情がきゅっと引きしまる。
「先輩……勝ちに行きます!」
「もうずっと来てるよ」
玲奈が床を蹴る。
一歩、一歩が速い。間合いが一瞬で詰まって——
「今度こそっ!」
玲奈の手が結の肩に届く——直前。
結は玲奈の腕を軽く掴み、勢いを流して体をひねる。
「うわっ……!」
玲奈はよろめきながらも踏みとどまる。
その背中に、結の声。
「はい、終わり」
「え……?」
振り返ると——背中に、結の指が軽く触れていた。
「……っ!! ま、負けたぁぁーーー!!」
玲奈は膝に手をついて項垂れる。
結は苦笑しつつ肩を軽く叩いた。
「惜しかったよ。でもほんと、強くなってる」
「くぅ……絶対そのセリフ言われると思ってました……!」
「でも、嬉しいでしょ?」
玲奈はむくれた顔のまま、やがてほんの少し笑った。
「……ちょっとだけ、嬉しいです」
七海が歩み寄る。
「二人とも、よく動いた。次の区分訓練はもっとレベルを上げるから覚悟しておけ」
「もっと!?」「え、もっと!?」
声が揃い、訓練場に響く。
七海は涼しい顔のまま、にやりと笑った。
「——期待してるよ」
結と玲奈は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
けれど、その表情にはどちらも嬉しさがにじんでいた。
夕方・水戸支局 ロビー
訓練を終えた二人は、タオルで汗を拭きながらロビーへ歩いていた。
窓の外はオレンジ色に染まり、少しだけ疲労と達成感が混じった空気が足元に漂う。
「はぁ〜……疲れた……でも楽しかった……!」
玲奈はストレッチしながら満足そうに伸びをする。
「ほんとに全力だったね。明日絶対筋肉痛になるよ」
結は肩を軽く回しながら苦笑した。
「先輩こそ、最後ずるいです……あれ……反則です……」
「反則じゃないよ。普通に避けただけ」
「うぅ……くやしい……!」
小さな悔しさを抱えつつも、どこか明るい玲奈の声。
その雰囲気に、結もつい笑ってしまう。
帰り道
支局を出た瞬間、夜の少し冷たい風が頬を撫でた。
「ちょっと寒いね」
「ですね……。あ、先輩、帰ったら何か作ります?」
玲奈が結の横を小走りで追いながら尋ねる。
「え、作ってくれるの?」
「もちろんです! なんか今日は先輩に勝てなかったので……その……せめてご飯でポイント稼ぎます」
「ポイントって何」
「気持ちの問題です!」
ぷいっと横を向く玲奈。
結は少し肩を落としながらも笑った。
「じゃあ、玲奈の作ったご飯、楽しみにしてる」
「……っ!? そ、そんな期待しないでくださいよ……!」
耳を赤くしながらも、歩幅を合わせてくる玲奈。
二人の影が街灯の下で揺れながらマンションへ伸びていく。
マンション・部屋
鍵を開けて部屋に入ると、ほんのり冷えた空気が迎えてくれた。
「ただいまー……」
「ただいま」
靴を脱ぎ、二人そろって軽く背伸びをする。
緊張がふっとほどけ、柔らかい日常の空気が戻ってくる。
「よしっ……じゃあ先輩、少し休んでてください」
玲奈は髪を結び直し、エプロンを取り出した。
結がソファに腰を下ろす間、台所から金属音が軽く響き始める。
「何作るの?」
「内緒です! 先輩があんまり食べないやつ作っても意味ないので、今日はちゃんと考えます!」
玲奈の声はどこか楽しげだ。
結はソファに体を預けながら、少し微笑む。
(ほんと……成長したなぁ、玲奈)
目を閉じると、訓練場での俊敏な動きが蘇る。
悔しそうに唇を噛んだ顔も、嬉しそうに笑った顔も。
——その全部が、少し誇らしかった。
30分後
「先輩、できましたよー!」
台所から玲奈が顔を出す。
両手を腰に当て、どこか得意げに胸を張っていた。
「おぉ……見た目からして美味しそうじゃん」
「でしょ? 今日は“勝てなかった悔しさメニュー”です!」
「いや名前がよくわからないよ」
二人は向かい合って座り、夕食の時間が始まる。
訓練の疲れは残っているはずなのに、
空気はどこか温かくて、やわらかくて——
今日もまた、二人の日常が少しだけ前に進んだ。
次回に続く....
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