第5話
教室は朝のホームルームで静まり返っていた。連絡事項を読み上げる教師の声を聞きながら、俺はある女子生徒の背中を見ていた。
いつにもなく丸まった背中は、何かに怯える小動物のようだった。
「じゃあみんな授業に遅れない様にな」
教師が一言告げて教室を後にすると、ざわざわと喧騒が支配した。
耳を澄まさなくても、何を話しているのかはわかった。なぜなら口々に『陰気な女』とか『性悪女』など聞くに耐えない言葉が聞こえてくるためだ。
教室の雰囲気は最悪で、まるで不安の詰まった火薬箱の様だ。いつ爆発するかわからないそれは、教室中に一定の緊張感を持たせている。
──どうしようか。
俺が悩んでいるのは、ヘアピンについてだ。教室の右端に座る春風飛鳥の持ち物で、本来ならば彼女に早々に返すべきものである。
心情的にはさっさと返して楽になりたいが、堀田がどう考えているかわからないため二の足を踏んでいる。
そんな事を考えていると、堀田のもとに一人の女子生徒が近づいていった。
「堀田さん。ちょっといいかな?」
「あ、あす……春風さん。なに?」
二人の会話に聞き耳を立てる様に静まり返った教室。
──やめてやってくれ。
春風に悪意は無いだろう。彼女は主役だ。だからこそ、聞きたいことがあれば直接聞くし、言いたいことがあれば、他人の目なんて気にしない。
けれど、観客席で見てる人間が、いきなり壇上に上げられて喜ぶかは、また別の話だ。
「堀田さんと私のことが変な噂になってて。だから、直接聞かなきゃと思ったの」
「……何を?」
「堀田さんは、私のヘアピンが"どこにあるか"なんて知らなかったんだよね?」
「っ……そ、それは」
昨日、春風が電話の最後に妙に釈然としていなかったのはこれが理由だったのか。
確かに、春風からしたら妙な話だ。
一度ヘアピンの在り処を尋ねた堀田が、何故か校舎裏でヘアピンを見つけた俺に突っかかる。側から見たら、元から失くし物の場所を知っていた様に見える。
事実、堀田はヘアピンの在り処を知っていたんだろう。だからこそ、校舎裏であんな風に見ていた。
「いや、いいの。もし、知ってたとしても……。でも、その理由がわからないの。ねえどうして、ヘアピンがどこにあるか知ってたのに、教えてくれなかったの?」
少しだけ見える春風の表情は暗い。こちら側からは見えない堀田は、今どんな顔をしているんだろう。
「……それは、言えない」
堀田の返答に、春風は悲しそうな顔をするだけだ。追求する事もしないし、怒るわけでもない。
春風の肩を、一人の女子生徒が軽く叩く。
「大丈夫? 飛鳥」
「凛……。うん」
女子にしては身長が高く、肩口で短めに切り揃えられた頭髪も相まって活発な印象を受ける。
確か名前は工藤凛だったか。
春風の友人ポジというか、まあクラスでは強い権力を持った女子生徒だ。
そんな工藤が、堀田の机を強く叩く。
大きな音が出て、堀田がビクッと肩を震わせる。
「あのさ。堀田さん。飛鳥に謝りなよ」
「え?」
工藤は見た目通り男勝りな性格なのだろう。有無を言わさぬ様子で詰め寄る。
「え?じゃなくてさ。飛鳥がこんなに優しく言ってくれてるのに、なんで何も答えないの? 普通は悪い事したら謝るべきでしょ?」
「悪いこと……?」
「そう! 飛鳥が辛そうにしてたのに、ヘアピンの事隠したでしょ!」
「だ、だってそれは。私が伝えるんじゃダメで──」
「あのさあ! 訳わかんない事言ってないで、ちゃんと説明してよ!」
もはや当事者よりも怒りに支配されている工藤。堀田は大きな声を浴びせられるたびに体を震わせている。
流石に見てられないと思った時、春風が二人の間に入った。
「やめて凛……。堀田さんが可哀想だから」
「で、でも飛鳥。こういうのははっきりさせないと」
「やめてって言ったでしょ。私──そんな事頼んでないよ」
春風にしては珍しく語気が強かった。
押し黙った工藤から堀田に向き直り、春風はこれ以上なく分かりやすい作り笑いを浮かべる。
「ごめんね堀田さん。ただ気になっただけで、こんなふうに問い詰める気はなかったの」
春風は悲しげに微笑んだ。
そんな顔をするだけで教室中の敵意が堀田に向いたように見えた。それだけの存在感が彼女にはある。
「私……私は」
堀田は声を震わせながら呟く。
だが、結局は席から立ち上がると、駆け足で教室を出て行った。
「なにあの子」
「あんなに優しく言ってもらってるのに謝らないってやばくね」
「春風さんが可哀想」
どうやら火薬箱が爆発したみたいだ。
口々に堀田の悪口を言いながら、教室は気味の悪い一体感を持った。
それは一限が始まるまでずっと続き、そして堀田はとうとう教室へは戻ってこなかった。
――――――――――――――
放課後。
教室を出て行ったきり戻ってこなかった堀田の席を見ながら、俺は帰り支度を済ましていた。
「──桐谷くん」
カバンに教科書を入れようとしていた手を止める。
振り返ると、春風が立っていた。
いつも通りの笑顔――のはずなのに、どこか底が見えない不気味さを感じた。
「ヘアピン。桐谷くんが持ってるんだよね?」
その問いかけは穏やかだ。
けれどその声色には、“返してくれるよね?”という見えない強制力のようなものが滲んでいた。
それは彼女が"絶対的な善"であるが故の、まわりへの同調圧力の様なものなのだろうか。
俺は無意識の内にカバンの外ポケットへと手をやる。
「あ……ごめん。実は家に忘れちゃったみたいなんだ。明日持ってくるから、それでもいい?」
春風は返事をしなかった。
ただ、無言で、俺のカバンを見た。
心臓が早鐘を打つ。
痛いくらいの沈黙の中で、春風はふっと表情を和らげた。
「そうなんだ……。うん。返してくれれば、それでいいよ」
その笑顔は太陽のように暖かく、そして、目も眩むような眩しさだ。
なのに俺は息が詰まるようだった。
(返さなかったら、どうなるんだ……?)
その問いは自分の心の中でだけ呟いた。妙な緊張感に背筋を冷や汗が伝う。
いつの間にか、教室には俺と春風の二人しかいなくなっていた。
そんなに長話をしていたわけでもないのに、まるで世界がそう決めたかのようだった。
「じゃあね、桐谷くん」
学校指定の上履きをペタペタと鳴らしながら、春風は教室を出て行った。
思わず肩を落とした俺は、胸の奥に重石を飲み込んだような感覚に襲われていた。
「怖え……」
彼女がこの世界の主役であることは重々承知しているつもりだったが、本当の意味で俺は理解してなかったのかもしれない。
彼女の敵になるということは、この世界の敵になるのと同義だと。
「それにしても……」
──どうして嘘をついたんだ俺は。
ヘアピンはカバンの外ポケットに入っている。出来るだけ早く返そうと思って、小さな巾着袋に入れて持ってきた。
ヘアピンを春風に渡して、それで俺の役目は終わりだと、そう考えていた。
元々はただの酔狂で、主役である春風に深く関わる気もなかったし、ヘアピンを探しに行ったのは単なる暇つぶしだった。
極論、俺が割を食わなければ何処で何が起きようが、どうでもいいとさえ思っていた。
だが、どうやらそうではないらしい。春風に話しかけられた瞬間、堀田の顔がチラついた。
俺以外にこの世界に転生した唯一の少女。
不幸だと思っていた俺とは対照的に、主役たちを眺めては幸せそうにしていた。
堀田が考えなしに校舎裏で喚いたからこんな状況になっているのだが、そもそも俺がヘアピンの件に首を突っ込まなければ彼女が怒ることも無かった筈だ。
「……くそ」
この状況は俺が作り出したものだ。大してストーリーに詳しくもないのに、野次馬根性を出して引っ掻き回した。これでは彼女を笑えない。
堀田の言う通り、モブキャラらしく大人しくしているべきだったのか。
絶えず巡る自問自答を抱えながら、俺はスクールカバンを担いで誰もいない教室を後にした。
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