第二章 赤点少女と優等生

 彼女に勉強を教え始めてから三週間ほどが経ち、中間テストの前日の日になった。

 その日も僕は予鈴が鳴るまで彼女に勉強を教えていた。

 彼女は初日に感じていた通り、地頭がいいからなのか、教えたことはほとんど吸収していた。

 これならばよっぽどのへましない限り、赤点になることはないだろう。少なくとも平均点くらいはとれるはず。

 だが僕はそのことを彼女には伝えない。この三週間を通して、彼女は褒められれば調子に乗るタイプだと感じたからだ。だから最後まで僕は厳しい言葉を吐く続けた。


「これは3日前に説明しただろう。こんな基礎問題を間違えていたら、赤点をとるぞ」


「ううぅ……。ごめんなさい」


 彼女は怒られるたびにそんな絞り出した声で謝ってくる。


 結局、科目としては五教科全てを3回に分けることで教えきり、最終日は今まで勉強して来た内容で不安な場所の強化をしている。


 予鈴が鳴ると彼女も慣れた手つきで片付けを始め、図書室を出るタイミングは同じになっていた。

 結局、僕らは一週間程が経つと一緒に駅まで帰るようになっていた。


 二週間近く一緒に帰っていたため、これからはこの行事がなくなることを少し寂しく感じていたが、それを口に出すことはしない。

 はじめから僕たちの関係は、僕が勉強を教える側、そして彼女は勉強を教わる側だとそう割り切っているからだ。


 だが感情というものは数学のように証明できるものではない。何故かこの日は酷く苛立っていることがわかった。

 理由はわからない。ただ胸の奥がざわついて仕方がなかった。

 自分でも持て余す、このよくわからない感情が、余計に苛立ちを強くしていた。


 駅に着いた僕は彼女に声をかけた。


「澪さん。次、学校に来るときには中間試験が始まってます。最後まで気を抜かずに頑張ってください」


「うん。春紀くんも頑張って…って、春紀くんは大丈夫か。私も最後まで頑張るね」


 そう言って彼女は駅のホームへ消えていく。

 それを見ていると何故か胸が痛んだ。

 僕は見送った後、改札を抜けて電車に乗った。


 この日は珍しく人が多く、椅子に座ることができなかった。


 *


「ただいま」


「お兄ちゃん。おかえり」


 家に帰ると中学三年の妹の彩香が出迎えてくれた。

 玄関には肉じゃがの美味しそうな匂いが漂っていて、すぐに今日の夕飯がわかった。


「今日は肉じゃがか」


「正解!私と母さんで作ったんだ」


「そうか。ありがとな」


「感謝は食べてからで、お願いします」


 急に敬語になった彩香は嬉しそうにリビングに帰っていった。



 僕の家は父さんがいない。詳しく言うと、彩香が産まれてから、仕事中の事故で死んだ。

 父さんは二人目が産まれたから、沢山稼ごうとして仕事の量を増やして、死んだ。

 死んだら元も子もないのに、死んだ。


 ただ、生前に沢山稼いでいたし、労災も出たため、金銭で困るようなことはなかった。

 母さんはパートで働いているが、そのくらいで十分なほどの財産を持っていると聞いている。


 だけど僕は初め、母さんの負担を減らすために高校には行かずに働こうかと考えていたが、母さんに止められて今の高校に入った。

 幸いにも特待生であったため、学費で困ることはない。そのため彩香も高校には行けるはずだ。


 三人で食事を囲み、終わると僕はテーブルを片付け、二人は食器を片付ける。

 これはいつからかずっとしていることのため、自然と身体が動く。


 片付けを終えると自室に戻り、僕は本を読み始めた。

 だが何故か集中できず、すぐに読むのをやめた。代わりに中間試験の対策を始めたが、何故かそれは集中できた。

 そして所々、簡単な場所に引かれたまだ新しいマーカーの後を見て、彼女のことを考えてしまっていた。

 僕はその事実を知らないフリをして勉強を進めていると、扉が叩かれた。


「お兄ちゃん。今、大丈夫?」


「どうした?大丈夫だぞ」


 大丈夫と伝えると彩香は扉を開けて、中に入ってきた。

 そして僕の机を見て、何かを確信したように話し始めた。


「お兄ちゃん。今日、様子おかしいよ」


「僕が?何かおかしいところがあったか?」


「いくつもある。お兄ちゃんは家に帰ってくるといつもすぐに弁当箱を出す。でも今日は出してないし、なんなら私がカバンから出した。他には机の上に私のコップを置きっぱなしだったし、今は勉強をしてる。家では勉強はしないんじゃなかったの?」


 そう言われて、彩香は本当に僕のとこを見ているのだとわかった。

 言われてみると、今日は弁当箱を出していなかったし、家ではしないと言っていた勉強をしている。コップに関しては、完全に記憶にないが、彩香が言うならば忘れていたのだろう。

 それだけ今日の僕の様子はおかしいのだ。


「どうしたの?学校で何があった?」


「特に。いつも通りだったよ」


 なぜ今日おかしいのか、心当たりがあったが、僕はそれを口にはしない。

 その感情はエゴだから。


「そう?ならいいけど、何かあったらいつでも言ってね」


 彩香はそれだけを伝えるとすぐに部屋を出ていった。


 僕の異常に気付いておきながら、本人が大丈夫だというとそれ以上は何も聞いてくることはない。

 自分の妹ながら、よくできた子だと思った。


 彩香が出ていってから僕はまた机に広げられた教科書で勉強を進めていった。


 久しぶりに家で勉強をしたが、思っていたよりも集中できた。そして、この感触なら、また首席を取れるだろうとも感じていた。


 五科目すべての最終確認を終え、時計を確認するとその針は既に10時を回っていた。

 想像以上に集中していたことに驚きつつ、そろそろお風呂に入ろうと思っていると、スマホが小さく震える。

 スマホを手に取るとスリープが解除され、ロック画面には先程の通知が一つ映されていた。


 その相手は澪さんだ。


 その内容は問題が書かれた一枚の写真と、その問題がわからないという旨だった。


 その問題は先程自分で解いたばかりだったため、どう考えればいいのかがすぐわかったため、どう考えていけばいいのかを文体にしていく。

 そしてその文を完成させ、彼女に連絡を返した。


 連絡を送るとすぐに既読が付いたが、返答はなかなか来ない。

 返答が来たのは10分ほどが経ったとき。

 時間にしてはそのくらいだったが、体感ではもっと長い時間に感じた。


「ありがと。問題解けた!」


 僕は問題の答えは送らず、考え方を教えたため、その考えを元に問題を解き直していたのだろう。


 僕はその返答に「それならよかった」、とだけ返して、お風呂に向かった。


 お風呂からでたときには、時計は11時になろうとしていた。


 ───────────────────


 お兄ちゃんがおかしい。

 そう感じ始めたのはここ数日。

 ここ最近、やけに楽しそうに帰ってくると思っていたら、今日は何かに苛立ってた。


 いつもは帰ってくると同時に弁当箱を洗い場に持ってくるけど、今日はそれすら忘れていたし、テーブルの上の食器の片付けを一つだけだったけど、忘れてた。

 心配になって部屋に行くと、家では勉強をしないと言っていたのに、勉強をしていた。

 よく見えなかったけど、簡単そうな問題にも赤線が引かれたりしていて、やっぱり何かあったんだろうと思った。


 お兄ちゃんに何かあったかを聞いてみたけど、いつも通りだ、って言うから、深くは聞かずに部屋を後にした。


 その日の夜、お兄ちゃんはいつも9時くらいにお風呂に入って、結構早く出てくる。

 早く出る理由はお兄ちゃん曰く、あそこは身体を洗う場所だからだ、と言っていた。

 でも今日は10時30分前にお風呂に入ってたし、お風呂を出たのは11時になりそうな時間だった。


 いつも通りだ、って言ってたけど、やっぱりどこかおかしい。


「もしかして、好きな人でもできたのかな?」


 暗い部屋で天井を眺めながら、そんなことを口に出す。


「いや、それはないか」


 私は言ったことをすぐに否定する。

 お兄ちゃんは色恋沙汰に興味がないのを知っているからだ。

 小学生、中学生と意外と人気があって、告白されることも何度かあったけど、いつも付き合ったりすることはなかった。どう見てもあれはそういったことに興味がない人間にしかできないことだった。


 でも……、もしもそうだとしたら……。


「初恋……、ってこと!?」


 そんなことを口に出し、恥ずかしくなった私は布団に潜る。


「初恋なら自分の気持ちに気付いていたなくても同じくないか…。よし!私がサポートしてあげなきゃ」


 お兄ちゃんがもしも初恋をしているのなら、それが実るように応援、サポートするのがいい妹。


 そう思った私は、お兄ちゃんを全力で支えようと思った。


 ───────────────────


 春紀から勉強を教えてもらうのは、初日の別れ方から、はっきり言ってあの日だけで終わると思ってた。

 でも春紀はそんなことはせずに、責任を持って私に勉強を教え続けてくれた。

 それを疑問に思った私は、春紀にどうして教えてくれるかを聞いたよね。

 そしたら春紀はこう言った。

「教えると言ったから」って。


 この人は凄いと思ったよ。あんなに気不味い別れをしたのに、自分の言ったことに責任を持って、次の日も教えてくれたんだから。

 しかも、私は気不味くて連絡をためらってたのに、春紀は何事もなかったかのように、「今日も図書室にいます」って、言ってきた。

 もう関わることはないんだろうな、って思ってたから、嬉しかったよ。

 あの日、春紀から誘ってくれなかったら、私たちの関係はあの日で終わってたと思う。


 ありがと。


 勉強を教えてくれる最終日、春紀は駅で私に喝を入れてくれた。嬉しかった。

 私も同じように春紀を応援しようとしたけど、君は賢いから、なんか変な感じになっちゃった。

 自分が頑張ることだけ伝えて、なんかカップルみたいなことをしている自分に恥ずかしくなって、私は駅のホームに逃げた。

 もしかしたら、春紀を意識し始めたのは、あの日からかも。



 その日の夜、私がわからない問題を聞いたよね。覚えてるかな?

 それまでは事務連絡のようなことしかしてなかったし、時間も時間だったら迷惑だろうなって思った。でもね、春紀に勉強を教えてもらったから、いい点数を取りたいって思ったんだ。だから質問した。


 春紀はすぐに返事をくれたし、答えだけを送ってくるんじゃなくて、答えの導出方法と考え方を教えてくれた。

 それを元に改めて問題を解き直してみると、不思議なことに、簡単に解けた。

 やっぱり、春紀の説明はわかりやすいと思った。


 でも、その連絡を見ながら問題を解いてたから、既読がついてるのに返信をしていない人になってるのに、問題を解いてから気付いたんだ。

 悪いことをしたなぁ、と思いながら無事に解けたことを返信すると、すぐに既読がついて、「それならよかった」って来た。

 時間的に返信を待ってたんだろうね。なんか、意識されてるように感じて嬉しかった。


 *


 だんだんと起きている時間のほうが短くなってきている身体を無理矢理叩き起こして、私は春紀との思い出を全てを文章にしていった。

 少し前まで当たり前のようにできていたことが、ひとつずつ難しくなっていく。

 そのたびに“ちゃんと残さなきゃ”という気持ちだけが強くなっていく。


 それは、春紀に私を忘れてほしくないからだ。

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