第30章 破滅のワルツと、ポリエステルの摩擦係数

ワルツの調べが流れる。


「美しく青きドナウ」


俺、佐藤健太にとっては、「苦しく痛き小指」だ。


「ワン、ツー、スリー。……力抜いて、佐藤さん」


高円寺麗華が、俺をリードする。


彼女の動きは水の上を滑るように滑らかだ。


対する俺は油切れのブリキのおもちゃだ。


ギギ、ガガ、と関節が悲鳴を上げている。


レンタルしたタキシード(ポリエステル100%)の中は、すでに冷や汗で蒸し風呂状態だ。


背中のタグは切ったが、脇の下の縫い目が、腕を上げるたびに「ミシッ」と不穏な音を立てる。

(……破れるなよ。絶対に破れるなよ) 弁償金2万円。


今の俺には、それが全財産だ。


「ふふっ。ロボットみたいで可愛いわ」 麗華が、俺の耳元で囁く。


「……ねえ、佐藤さん。このまま、抜け出さない?」


「……え?」


「あそこの非常口から。私の部屋まで、直通のエレベーターがあるの」


彼女の手が俺の首筋をなぞる。


冷たい指先。


ぞくり、と背筋が震えた。


「……無理です。俺、まだ……」


「まだ?」


「……ローストビーフ、食べてないんで」


俺はE判定なりの精一杯の抵抗を試みた。


麗華の眉がピクリと跳ねる。


「……あなたって、本当に」


その時だ。


曲が盛り上がりターン(回転)のパートに入った。


麗華が鮮やかに体を翻す。


俺も、それに合わせて回ろうとした。


だが。


俺は忘れていた。


この格安エナメルシューズの靴底がツルツルのプラスチック製だということを。


そして、会場の床が恐ろしく磨き上げられた大理石だということを。


ツルッ。


「あ、やべぇ!」


俺の右足が氷上のスケーターのように滑った。


摩擦係数ゼロ。


俺の体は、物理法則に従って後ろへ倒れ込む。


咄嗟に俺は目の前の「何か」を掴もうとした。


それは、麗華の、真紅のドレスの裾だった。


ビリッ!!!!


会場にオーケストラの演奏よりも大きな布が裂ける音が響き渡った。


スローモーションのような時間。


俺は尻餅をつき麗華はバランスを崩して俺の上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。


そして俺の手には…… 真紅の布切れ(フリルの一部)が虚しく握られていた。


静寂。


200人の視線が俺たちに突き刺さる。


「キャアアアア!?」


「麗華様が!」


「おい、あの男、何したんだ!?」


MA(マリアージュ・アカデミー)のアベンジャーズたちが殺気立って駆け寄ってくる。


終わった。


俺の婚活、いや、俺の人生が、ここで終わった。


ドレスの弁償代。


数百万? 数千万? 俺の年収何年分だ?


「……さ、佐藤……さん」


俺の上で麗華が震えていた。


怒られる。


ビンタされる。いや、殺される。


俺はギュッと目を瞑った。


「……あ……あはは!」


え?


「……あはははははは!」


麗華が、笑っていた。


涙が出るほど腹を抱えて狂ったように笑っていた。


「すごい! すごいわ、佐藤さん! まさか、ターン一回で、私のドレス(オーダーメイド)を破壊するなんて!」


彼女は床にへたり込んだまま俺の胸倉を掴んだ。


その目は、恍惚としていた。


「計算できない! 予測不能! やっぱり、あなた最高よ! ねえ、このまま行きましょう? このボロボロのドレスのまま私の部屋へ!」


狂気だ。


この女、完全にイカれている。


「失敗(エラー)」を愛するあまり自分の破滅すらエンターテインメントにしている。


「さあ、立って! 逃避行よ!」


麗華が俺を引きずり起こそうとする。


周りのMA男子たちが、唖然として動けない。


俺は、恐怖で腰が抜けていた。


誰か。


誰か助けてくれ。


普通の焼きそばが食べたいだけなんだ、俺は。


その時。


人垣を割って、一人の「女将」が割って入ってきた。


「……失礼します」


田中美咲さんだ。


彼女は、手に持っていた「安全ピン(なぜ持っている?)」を口にくわえ、 サッ、と麗華の背後に回り込んだ。


「……動かないでね。応急処置します」


田中さんは、手際よく、裂けたドレスの裾をつまみ、裏側から安全ピンで留め、さらに持っていた「風呂敷(なぜ持っている?)」を、ショールのように麗華の腰に巻いた。


「……これで裂け目は見えません。 今のうちに、控室へお戻りください」


鮮やかだった。


まるで、老舗旅館のベテラン仲居が、酔っ払いの粗相を処理するかのような完璧な手際。


「……チッ」


麗華が、舌打ちをした。


「……邪魔しないでよね、E判定探偵さん」


「……邪魔じゃありません。 佐藤さんの『弁償リスク』を回避しただけです」 田中さんは眼鏡の奥で冷たく言い放った。


「佐藤さん。行きますよ」


田中さんが、俺の手を引いた。


その手は、ローストビーフの油で少しベタついていたが、 麗華の冷たい手よりも、ずっと、ずっと温かかった。


「……あ、ああ」


俺は、ヨロヨロと立ち上がった。


小指の痛みなど、もう感じなかった。


「……覚えてなさいよ」


麗華は、風呂敷を腰に巻いたまま、不敵に笑った。


「この借りは、高くつくわよ。……二人とも」


俺たちは、逃げるようにダンスフロアを後にした。


背後では、ようやく我に返ったオーケストラが、慌てて明るい曲を演奏し始めていた。


会場の隅。


ビュッフェ台の影に隠れて、俺たちはぜえぜえと息を切らした。


「……助かりました、田中さん」

「……いえ。たまたま、着付け用のピンを持っていたので」


田中さんは、乱れた着物の襟を直した。


「……でも、佐藤さん」


「はい」


「……あの状況で、私たちが『何もせずに逃げた』こと。


……桜木塾長が見ていたら、『退学』ものですよ」


「……あ」


そうだった。 俺たちのミッションは、「マッチング」だ。


麗華(A判定)という超優良物件を袖にし、ダンスを台無しにし、ただ逃げ帰ってきた俺たち。


「……どうします? まだパーティーは続いてますけど」

俺は、会場を見渡した。


煌びやかな男女。


成功者たち。


あの中に戻る気力は、もう俺のポリエステルには残っていない。


「……佐藤さん」

田中さんが、ポツリと言った。


「……外の空気、吸いに行きませんか? ここ、ローストビーフの匂いと、香水の匂いで……酔いました」


「……ありですね」


俺たちは、聖夜のパーティー会場から、 まるで敗残兵のように、 あるいは、共犯者のように、 そっと抜け出した。


外は、いつの間にか、雪に変わっていた。


ホワイトクリスマス。


俺たちの、寒くて、痛くて、しょっぱい夜は、まだ終わらない。

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