第1章:婚活偏差値38(E判定)

スマホの画面で、あの「入塾説明会 お申し込みはこちら」という無愛想なボタンを押した、その週末の土曜日。


俺、佐藤健太は、指定された雑居ビルの前に立っていた。


結婚相談所というから、もう少し華やかなロビーでもあるのかと想像していたが、そこは薄暗いエントランスに、学習塾や資格スクールがひしめく、典型的な「受験ビル」だった。


7階。


エレベーターの扉が開くと、そこはもう「ブライダル・パス」のフロアだった。

消毒液と、古いカーペットの匂いが混じり合う。


受付の女性に名を告げると、予備校の事務員のように手際良く「本日の資料です」とクリアファイルを渡され、無機質な会議室へと通された。


会議室には、長机とパイプ椅子が並べられ、正面には巨大なホワイトボード。


すでに集まっていた十数名。


男も女も、皆、俺と同じように居心地が悪そうで、互いに視線を合わせようとしない。


それは、婚活パーティーのそれとは明らかに違っていた。


まるで、模試の会場で、試験開始を待つ受験生のような緊張感だ。


やがて、スーツ姿の塾長らしき男が、資料を抱えて入ってきた。


ぎらぎらした目つきの、体育会系の男だ。 彼は、愛想笑いの一つも見せず、ホワイトボードの前に立つと、太いマジックで大きくこう書いた。


「結婚は、戦略だ。」


「皆さん、ようこそ『ブライダル・パス』へ。


塾長の桜木(さくらぎ)です」 響き渡る、太い声だった。


「もし皆さんが、ここに『癒し』や『素敵な出会い』を求めて来られたのなら、今すぐお帰りください。我々は、そんな生ぬるいものは提供しない」


桜木は、集まった俺たちを睨みつけるように見回した。


「いいですか。恋愛は感情かもしれない。だが、結婚は『試験』だ。 相手(志望校)から『合格』を勝ち取らねばならない、人生最大の受験なんです。 それなのに、あなたたちは今まで、なんの対策もせず、『運が良ければ受かるかも』と、E判定のまま本番に挑むような真似をしてきた。違うかね?」


図星だった。誰も何も言い返せない。


「今日、ここに来たのは第一歩だ。だが、まずは己の『現在地』を知ってもらう。 今から、『婚活基礎力診断テスト』を行います」


配られたのは、マークシートと記述式の問題用紙だった。


「年収」「貯蓄額」「身長」「学歴」といったスペック欄を埋めていく。

これは、センター試験の願書を書く作業に似ていた。


だが、問題は「記述式」だった。


問1:「あなたが結婚したい理由を、3つ述べよ」

(……世間体。一人が寂しい。親がうるさい。そんなこと書けるわけがない)


問2:「あなたが、相手に提供できる『ベネフィット(利益)』を5つ述べよ」

(……ベネフィット? 利益? 真面目に働く、とか? 借金はない、とか?)


問3:「あなたの過去の恋愛(=過去問)における、最大の『敗因(失点)』を分析せよ」 (……自然消滅。敗因……考えたこともなかった)


俺は、鉛筆を握りしめたまま、ほとんど何も書けなかった。

こんなにも、自分が空っぽだったとは。


テスト用紙が回収され、桜木が採点のために一旦退室すると、重苦しい沈黙が会議室を支配した。


数十分後。 桜木が戻ってきた。

その手には、赤ペンでびっしりと書き込まれた俺たちの「答案用紙」があった。


「さて、結果が出た」


一人一人、名前を呼ばれ、答案が返却されていく。

「佐藤健太さん」 俺は、恐る恐るそれを受け取った。


A4用紙の右上。

そこには、受験生時代に見慣れた、あの忌まわしい判定が、真っ赤な文字で記されていた。


「婚活偏差値:38」

「総合判定:E(合格可能性20%以下・要根本的見直し)」


偏差値、38。 俺の大学時代の偏差値は、50台半ばだったはずだ。


それよりも、遥かに低い。


コメント欄は、赤ペンの嵐だった。


「自己分析、壊滅的」

「ベネフィット提示能力、皆無」

「『いい人がいれば』という他責的思考が根強い。まずそこから叩き直せ」

「ファッションセンス、論外(※要・専門指導)」


頭が真っ白になった。

これが、俺の「現在地」。35年間、ぼんやりと生きてきた結果が、この「偏差値38」だった。


桜木が、再び教壇に立つ。


「見たかね。それが君たちの、残酷なまでの『現実』だ。 だが、恥じることはない。むしろ、E判定だと知らずに突撃し、玉砕し続けるより100倍マシだ。 なぜなら、予備校(ここ)は、偏差値を上げるために来る場所だからだ!」


桜木は、ホワイトボードに叩きつけるように書いた。


「基礎徹底Fクラス」


「偏差値40未満の諸君は、まずここからスタートだ。 いいか、目標は『成婚合格』。 俺たち『ブライダル・パス』が、君たちを、何としてでも合格させてやる。 入塾する覚悟は、できたか!」


その声は、かつて通った予備校の、あの暑苦しい夏期講習の初日と、全く同じだった。

俺は、震える手で、赤ペンまみれの「答案」を握りしめながら、小さく頷くことしかできなかった。

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