第6話 ② 神通

 「――中尉。点呼終了後、艦内勤務へ復帰願います」


 軍医が戻ってきて、きびきびと告げた。


 どうやら命に別状なしと判断されたようだ。


 「わかった……。少し休めば大丈夫だ」


 頼(らい)は努めて平静を装い、ゆっくりと立ち上がった。


 足元がぐらつく。だが、倒れている場合ではなかった。

ここで異常を訴えれば、軍医や上官に「精神異常」と見なされるかもしれない。


 ――それだけは、避けなければ。


 「おい、ゆっくり行けよ」


 「……ああ、ありがとう」


 山崎が肩を貸そうとしたが、頼はそっと手をあげて断った。


 自分の足で歩かねばならない。これが地獄の入り口だったとしても。


通路に出ると、鋼鉄の壁が続いていた。足元はリノリウム張り、所々に鋲の跡。


 金属のきしむ音、蒸気の走る音、どこかで号令が響く。


 (完全に……艦内だ。しかも、蒸気機関の……)


 ハッチの形状や艦内の造作は、頼がかつて模型で再現した「旧海軍の巡洋艦」と酷似していた。


 そして、それが“神通”であることに、艦橋近くの名板を見て、ようやく確信する。


 軽巡洋艦〈神通〉――呉鎮守府所属。


 頼は思わず足を止めた。

 この船の名前は、知っていた。


 太平洋戦争中、ソロモン諸島で壮絶な最期を遂げた、あの神通。


 そして、その最期の戦場――コロンバンガラ島。


 今朝の“めまい”の中で見た地獄の情景と、ぴたりと重なっていた。


「吾妻中尉、貴官か」


 鋭い声が通路を突き抜けた。


 振り返ると、制帽に金線を巻いた長身の男が歩み寄ってくる。


 顔は険しく、背筋は軍刀のように真っすぐだった。


 「船務科長・川西中佐である」


 (まずい……上官……!)


 「貴官、本日点呼を無断で欠席した。理由を述べよ」


 「……申し訳ありません。体調不良にて、医務室にて倒れておりました」


 「軍医からの報告は受けた。しかし、我が艦において私的理由による無断欠席は看過されない。再発あらば、責任を問う」


 「はっ……!」


 咄嗟に口から出たのは、軍人としての応答だった。


 それが自然に出たことに、頼自身が驚いていた。


 (……俺の中に、“吾妻頼”の記憶がある……?)


 上官は鋭い目つきで一瞥し、何も言わずに去っていった。


その背に敬礼を送ると、山崎がすぐ横にやってきた。


 「川西中佐……怖いなあ。口の利き方ひとつで左遷されかねないって、みんな噂してるぜ」


 「……ああ、肝に銘じるよ」


 頼は唇を噛みしめた。


 ここは、ただの夢でも空想でもない。 


 1926年の海軍にいる現実。


 ――そして、自分は「吾妻頼(たのむ)」として、生きていかねばならない。


艦内は蒸気の匂いと鉄の冷たさに満ちていた。


 頼(らい)は軍服の袖を引き直し、甲板から船務科の部屋へと向かう。


 この重厚な空気が、自分の心の中の混乱を一層深めていく。


「吾妻中尉、こっちだ」


 声をかけてきたのは山崎少尉だった。同期として励まし合える数少ない存在だ。


「今のところ体調はどうだ?」


「まだ少しふらつくけど、何とかやっていけそうだ」


「そうか。川西中佐には気をつけろよ。おれもいままで、何度怒鳴られたか分からん」


 山崎の笑顔は心強かったが、頼の胸中はまだざわついていた。


神通の船務科は、艦内の様々な管理や兵員の動きを取り仕切る重要な部門だった。


 頼は艦隊勤務の経験はないが、士官学校での成績は優秀で、階級も少尉から中尉に昇進していた。


 それだけに、自分が突然この時代に“生きている”ことの重みを感じる。


「吾妻中尉、来たばかりでわからないことが多いだろう。遠慮なく聞け」


 山崎はそう言いながら、艦内図面や当直表を手渡した。


「ありがとう。助かるよ」


 任務の合間、艦内の雰囲気に馴染もうと努めた。


 士官室では戦友たちの談笑があり、食堂では黙々と食事を取る兵士たちの姿があった。


 だが頼の心は何度も現代へ戻りたがっていた。


その理由は、あの“めまい”の中で見た、戦場での光景――コロンバンガラ島での神通の沈没。


(あの時、俺は死んだ、はずだ、、、)


 しかし、今はまだそれを理解できなかった。


 自分が死んだという認識は、まだ遠い未来の話のように感じていた。


そんな中、ある日、艦橋からの呼び出しがかかる。


「吾妻中尉、至急艦橋に来い」


 階級の割に、重苦しい命令だった。


 急ぎ足で艦橋に向かうと、そこには川西中佐の厳しい眼差しが待っていた。


「吾妻中尉。これからの訓練についてだが、貴官には指揮補佐として期待している」


 頼は驚きと共に、身が引き締まるのを感じた。


「はい、必ずやお役に立ちます」


 だが心の奥底には、不安と疑念が渦巻いていた。

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