2章 1926-1927 神通編

第5話 ① 目覚め、1926

耳をつんざくような爆音――。


 甲高い金属音、焼け焦げた煙の匂い。

 重油が混じった海水が押し寄せる。

 誰かが叫んでいる。誰かが燃えている。誰かが……。

 ……死んでいく。


 意識の奥底から浮かび上がるそれは、夢とも現実ともつかない、絶望の断片だった。


 炎に包まれた艦体、砕けた艦橋、血まみれの制服、鉄と肉の匂い。


 沈みゆく船の傾斜。足元を奪う水の冷たさ。

 沈黙する瞳。――自分自身の、ものだ。


 「……っ!」


 息を呑んで跳ね起きた。

 強烈な眩暈が残り、視界が揺れる。頭が割れるように痛む。


左手に、熱い金属の感触があった。


無意識に強く握りしめていたらしい。拳を開こうとするが、指の関節が固まって、なかなか言うことを聞かない。力を込め、無理やりこじ開けると、手のひらには見慣れた銀色の鍵が汗ばんでいた。


「オレのアパート玄関の鍵!?」


「夢、じゃない……」


それを確認した瞬間、ようやく視界の焦点が合った。


 薄暗い天井、金属の光沢。粗末なベッド。布団の下には冷たい鉄板。


 どこだ? ここは……。


 ――病院じゃない。けれど病室でもある。いや、艦内か?


 重油と薬品の匂い。天井に這うパイプ。壁にかかるモールス信号表。


 「目を覚まされましたか」


 顔を上げると、白衣を着た医師らしき人物が一人。


 背筋を伸ばし、どこか年季の入った動作。髪型すら見慣れない。


 「……ここは……?」


 頼(たのむ)は喉を震わせた。

自分の声が、少しだけ低く、くぐもって聞こえた。


 違和感がある。鏡はないが、皮膚の感触も、筋肉の重さも、確かに何かが違う。


 「艦内医務室です。今朝の点呼時、艦内通路で倒れておられたそうで」


 「……艦内?」


 艦? どの艦? 点呼? 


 だがここは、知っている艦ではない。艦橋でもなければ、艦内区画の構造も現代のそれとは程遠い。


 いや、待て。どこかで見たことがある。写真か、模型か……映画か。


 「今日は動かない方がいい。めまいと記憶の混乱があるようだ。栄養不足と過労の可能性が高い」


 「……過労……」


 確かに昨晩までは疲れていた。

配達とフーデリの激務、睡眠不足、食生活の乱れ。


 けれど、そこからどうして……。


 「おーい、大丈夫か中尉殿!」


 不意にカーテンを開けて現れたのは、古風な軍服姿の青年だった。


 片眉を上げて笑いながら、頼を見下ろす。確かに、どこか見覚えがある――。


 「……誰だ?」


 「おいおい、寝すぎて脳までやられたか? 俺だよ、山崎。おまえと兵学校の同期の」


 ――山崎。


 確かに、そう聞こえた。兵学校の……同期?


 だが、山崎という名前の同期など、自分にはいなかったはずだ。


フーデリ仲間にもいない。


 「冗談だろう」


 「なに言ってんだ、いつも通りの顔してんじゃねえか。点呼すっぽかして中佐が雷落としてたぞ。しばらく医務室で休めってさ」


 山崎少尉はそう言いながら、頼の枕元に腰をかけ、何やら新聞らしきものを渡してきた。


 新聞……? いや、活字が古い。日付は……


 「…………?」


 ――1926年。


 それを見た瞬間、頼の呼吸が止まる。


 1926年という年が何を意味するのか、頭ではわかっている。


 けれど、それが今自分のいる「現実」だと、まだ心が理解できていない。


 「何か……おかしくないか」


 「そりゃおかしいさ。おまえが寝坊するなんてな」


 「いや、そうじゃなくて……」


 頼は言葉を濁した。自分が置かれている状況が、まだ飲み込めない。


 ただ一つだけ確かなのは、この身体は、自分のものではない。


 そして、自分の名前を「吾妻頼(たのむ)」と呼ぶこの世界で、誰も違和感を覚えていないということ。


 「おまえ、ほんとに大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 山崎の視線が心配げに揺れる。


 それを、頼(らい)はどうにか笑ってごまかした。


 内心、まるで笑えなかった。


 (俺は……どこにいる? いや、“いつ”なんだ?)


 身体の感覚は、確かにある。

夢ではない。痛みも、筋肉の重さも、腹の鈍い空腹も。


 自分の知る現代の艦艇ではない。スマートフォンもPCもなく、壁には艦内電話すらない。


 机には旧式の羅針儀と、手書きの航海日誌。


今朝の新聞の日付は――1926年11月4日。


 1926年。


 そう、歴史の教科書に載っていた「大正と昭和のはざま」、昭和の幕開けの日々。


 だが、それよりも気がかりな事実が一つ。


 ――吾妻頼(たのむ)。


 フルネームを呼ばれたとき、身体が自然に反応した。


 それはまるで、記憶の奥底に沈んでいた、別の自分が目を覚ましたようだった。


 (まさか……)


 そして思い出す。


 自分の曾祖父。名前は、確か――吾妻頼(たのむ)。


 海軍の軍人だった、と父から聞いたことがある。古い白黒写真とともに語られた、ぼんやりとした家族の記憶。


 (俺は、そのひいおじいちゃんの中に?)

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