桜の神様── 俺たちはみんな、桜に選ばれたんだ

Fluffy

第1話 兄弟の夢


 経済成長率が戦後最大のマイナスを記録し、企業のリストラや倒産が増加。失業率も最悪となり、平成大不況という言葉が日本全体で囁かれていた。そしておめでたいはずの成人式の日、トドメかのように関東甲信地方は大雪に見舞われた。首都圏の交通機関は麻痺し、会場に辿り着けない成人たちが感嘆した。“日本の未来に不安を覚えた日“。父は雪の影響で病院に辿り着けず、母が産科医と助産師たちに励まされながら何とか踏ん張り、俺──鷹匠深雪たかじょうみゆきを産んだ。


 2年後の秋。高橋尚子たかはしなおこがシドニーオリンピックの女子マラソンで圧勝した。2時間23分14秒の五輪最高記録を出すとともに、日本の陸上競技では64年ぶり、女子では初めての金メダルを獲得した。”日本の未来に希望が差した日“。テレビ中継の瞬間視聴率は50%を超え、このニュースに日本中が沸く中、弟──鷹匠雅輝たかじょうまさきが誕生。今度こそは父が母のもとに寄り添って。


 そして、俺が小学生生活五度目の春休みを満喫していたあの日。WBC決勝で延長10回、イチローが決勝タイムリーを放ち日本を二連覇へと導いた瞬間。イチローに“神様が降りてきた”ように、俺たちにも何かが降りてきていた。


 俺はあの日、弟と2人で公園に来ていた。いつもの公園。23区内にしてはやけに広いこの公園。だだっ広い芝生の他にバスケットリングやサッカーゴールもあり、ボール遊びをするには最適な場所だった。

 

 そのバスケットコート近くのベンチに、男が座っていた。トレンチコートを着てキャップを被りマスクをした男が。花粉が飛び交い、寒い時期でもある。世の大人はみんなそんな格好をしていた。男が特に不審な行動をしていたわけでもない。そんな中で俺と弟はその男から目を離すことができなかった。


 今思えばなぜあの男に注目していたのかは分からないが、リングの下でバスケットボールを横に抱えて俺らはその男を見ていた。

 

 男の横にグレーのスーツの男が座った。その男は新聞を広げて数分した後、その新聞を折りたたみ、ベンチに置くと来た方向とは別へ去っていく。


 ベンチに座っている男は突然立ち上がったと思うとこっちに向かって走り出した。その後ろには男を追うかのように、ランニングの格好をした女や犬を連れて歩いていた男たちが走って来る。


 先程ベンチに座っていたスーツの男の方を見ると、その男は他のスーツを着た男たち数人に取り押さえられ、後ろ手に手錠を掛けられていた。

 

 俺はそれを見てピンときた。こっちに向かってくる男を追っているのは警察官だと。


 ドラマで見たことがあったシーンとほぼ同じだった。これは密会している犯罪者二人を警察官が確保するシーンだと思った。その男を追っているだろう人たちの一人が拳銃のようなものを構えている。まさか白昼堂々と拳銃を人に向けているシーンを見られるとは思ってもみなかった。


──これは何かの撮影だろうか?

 周囲を見渡してもカメラは見当たらない。そしてあの気迫。ホンモノの捕物だった。

 

 こっちへ向かって走ってきたトレンチコートの男は立ち止まり、両手を挙げた。諦めるのが早すぎるのでは?と思ったが、反対側からも銃を構えた私服の人たちが男の元へと向かってくる。


──ああ、こりゃ諦めざるを得ない。

 あっという間に四方から銃を突きつけられ、トレンチコート男は膝を地面について両手を頭の後ろで組んだ。そしてその腕に手錠を掛けられて後ろ手に拘束された。手錠を掛けた私服警官だろう人が男を立ち上がらせて公園脇に駐車していたバンまで連行し手荒に乗り込ませた。

 

 一部始終を目撃した俺と弟は二人で顔を見合わせた。そして思わず、はしゃいだ。


「みっちゃん、今の、逮捕したんだよね?」

「たぶん──すっげーな、ホンモノだよな?」

「……スッゲー、カッケー!」


 キャッキャしている俺たちの元に、どこから現れたのか真っ黒いスーツを着た男が近づいて来た。


「やあ、君たち、何してるんだい?」


 声をかけられると思っていなかった俺たちは驚き固まった。目の前の男は穏やかな笑みを浮かべていて恐怖心を与える空気を纏っているわけではない。それでも俺たちは口を開かなかった。その様子を見た男は笑ってしゃがみ込み、俺たちと目線を合わせて言った。


「お母さんの言いつけをちゃんと守ってるんだな。えらいぞ。知らない人に声をかけられても対応しない。いい心がけだ」


 目の前の男はそう言って警戒心をむき出しにしている俺と弟を交互に見て鼻で笑う。その笑い方を俺はどこかで見たような気がした。俺は思わずその男に問いかけた。


「あの──この前、あそこのラーメン屋でネギラーメン食べてた人ですよね?背脂無しの」


 男は驚いた顔をした。何かまずいことを言っただろうか。


「あ、やっぱり今の無しで……」


 俺が吐いた唾を飲み込んだ時、弟──雅輝まさきが引くに引けない言葉を紡ぐ。


「おじさん、いつもここランニングしてる人でしょ?」


──え?そうなの?

 その事に気づいていなかった俺は悔しくて口に出すことはしなかった。

 

「みっちゃん、このおじさんといつもすれ違ってるよね?俺たちが帰る時」

「あ、ああ……」


 俺は全く覚えていないが、雅輝がここまで確信を持って言うのであればそうなのだろう。これで雅輝の勘違いであれば大変失礼なことだが。弟は目の前の男をじっと見ていた。


「紺色のシャカシャカする服を着て、毎日4時50分にあの信号ですれ違ってますよね?」


 雅輝は公園の向かい側にあるラーメン屋前の信号を指差す。男は明らかに動揺した。その様子を見て俺と雅輝の警戒心は一気にマックス値に。


「不審者だ!」

「雅輝、逃げるぞ!」


 俺たち二人が駆け出した瞬間、男が俺たちをいとも簡単に捕まえた。暴れる俺、男の股間目掛けて蹴りを入れようとする雅輝。男は慌てた。


「ちょっと、落ち着こうか、ね?おじさんは怪しい人じゃないから」

「変質者はいつもそう言うんだ!」


 俺が失言をしている中、雅輝は叫ぶ。


「証拠を出せ!」


 雅輝の言葉に男は即答した。


「わかった。わかったから、静かにしてくれ。このままだと俺が本当に不審者になっちまう」


 男は俺たちを掴む腕の力を緩めて言う。


「俺は警察官だ」


 その言葉にピタリと動きを止める俺たちはゆっくりと男を振り返った。男は俺たちから手を離して、胸元をゴソゴソと漁った。そして黒い革製の縦長のものを取り出して、ぱかりと開いた。


 警察手帳だった。すぐに目に入ったのは、東天に昇る、陰りのない、朝日の清らかな光のように輝く旭日章。その金色の桜の代紋の下には警視庁の文字。そしてその上には目の前の男の顔写真と警部、桜木誠さくらぎまことと書かれた文字。警察官になるべくして付けられたような名前だった。


 初めて見る警察手帳に興奮する雅輝。


「おおお!スッゲー!!!」


 俺は一周回って冷静になった。

 

「……ホンモノ?」

「ああ。俺は刑事だ。おじさんから君たちにお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」


 刑事からお願い事をされるとは思わなかった俺たちは顔を見合わせて首を傾げた。


「君たちの観察力と記憶力には驚いたよ。きっと今日見たこともずっと覚えてるんだろうね。だからお願いなんだけど、今日見たことは誰にも言わないで欲しいんだ。お父さんにもお母さんにも、お友達にも先生にも」


 目の前の刑事が何故そう言うのか、理由がよく分からなかった。雅輝はすかさず質問をした。


「何で?」

「今日の仕事は極秘なんだ」

 

 意味がわかっていない雅輝は刑事の言葉を復唱する。


「ゴクヒ──?」

「ああ。誰にも知られてはいけない」

「でも俺たち見ちゃったよ?」

「あのな雅輝、だから刑事さんは俺たちに秘密にしてくれって言ってんだろ?極秘任務だから」


 雅輝の耳には呆れながら言う俺の言葉など聞こえていなかった。


「おじさん、警察のどこの人?刑事って捜査一課?二課?」


 兄の俺も驚いた。

──何故お前は極秘という言葉を知らないくせに部署名を知っているんだ?

 いや、逆だな。散々刑事ドラマや警察映画を見ているくせに極秘を知らないのがおかしいのだ。


 刑事は大笑いをした後に俺と雅輝の頭を撫でる。


「君たちが将来もし警察官になったら、ぜひ一緒に働きたいよ」


 そう言って立ち上がり仲間の元へと向かう刑事に、俺はふと思って言葉をかけた。


「もしかして、公安の刑事さんですか?」


 刑事は立ち止まってゆっくり振り返り、口に人差し指を当てて笑った。そしてそのまま先程逮捕された男が乗ったバンに乗り込んだ。


 雅輝はバンが去って行った方向を見ながら呟く。


「警視庁に帰るのかな?」

「そうなんじゃない?取り調べが始まるんだよ、きっと」


 公園内に吹き込んだ風は春の日差しが乗り、わずかに暖かさを感じた。春独特の匂いもした。その春風はコートを囲むように植えられている桜の木々を揺らす。俺と雅輝は一瞬に吹雪に包まれた。視界がクリアになった時、もうあの刑事が乗ったバンは見えなくなってた。


俺はその時、何となく思った。だが口に出すのは雅輝の方が早かった。


「みっちゃん、俺、将来は警視庁の公安刑事になるよ」

「…………」


 俺が言いたかったことを先に言われた。兄として弟に遅れを取るわけにもいかず、あの時の俺は謎の見栄を張った。


「じゃあ俺は──警察庁の公安を目指す」

「そしたら、みっちゃんと俺でゴクヒ捜査して犯人を逮捕できるね!」

「ああ!」


 俺たち二人はピンクの絨毯の上を歩いて家に帰った。桜に歓迎されている気分だった。あの日、俺たちの元にも間違いなく神様が降りてきたのだ。


 公安刑事へといざなう、桜の神様が。

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