『木霊の国クルーズ』ープロンプト執筆ルールの実験ー
青月 日日
『木霊の国クルーズ』
冬の午後、海風の塩気が頬に貼りつく。
那古寺の境内は静まり返り、瓦の隙間に積もる砂が白く光っていた。多宝塔と観音堂の間に、山肌へ向かう長い石段がのびている。空の端にかかる雲は低く、遠くでカモメの声が小さく反響した。
昨日まで、クライアントの無茶振りに追われていた。
深夜の修正依頼、上司のため息、チャットの赤い通知。気づけば眠れず、なんとなく電車に乗った。
主要駅の手前でふと窓の外を見て、降りてしまったのだ。那古船形駅。駅前の観光案内に“那古山”の文字が見えた。
目的はなかった。ただ、どこかへ行きたかった。
足をかけるたびに、石がしっとりとした冷たさを返す。心臓がゆっくりと脈を打ち、胸郭の奥で空気が細く出入りする。筋肉が膝の裏で硬く鳴り、重心がじわりと前へ滑る。呼吸が浅くなり、視界の端がかすかに揺れた。
額に滲む汗が冷え、耳の奥が遠くなる。山の静けさの奥で、何かが呼吸しているようだった。
石段を登り切ったとき、空気が変わった。湿った苔の匂いと、土の甘み。そこに光の粒が浮かび、煙のように渦を巻いた。
その中から、小さな狐が飛び出してきた。尾が三本。瞳は琥珀色で、胸には銀のマイクが光っている。
「お客様〜、木霊の国ツアーへようこそ! ここから先、常識はお預けください!」
狐は尾をひと振りし、胸元から透明な装置を取り出した。掌におさまるほどのゴーグルで、内側には微細な光の粒が流れている。
「こちらは『常識』の引き換えチケットを兼ねたAIゴーグルです。しっかり被ってくださいね。
皆様の世界ではAIが大流行だとか。私どもも、沈みかけたこのクルーズを立て直すため、いち早く導入を検討しました。
今回はその試作第1号です。AIゴーグルにより感覚が先鋭化され、異次元の感動をもたらすクルーズになっているはずです。
障害の報告はほとんどなく、時々、異常な生理反応があったり、帰ってこれなくなったりする程度です。
それでは――十分に、木霊の国クルーズをお楽しみください。」
ゴーグルをかけると、視界が粒子のようにざらついた。
最初はノイズ混じりの映像。輪郭がぶれて、風景がデジタルの残像になって震える。
だが、次の瞬間、ノイズが花びらに変わり、光が液体のように流れはじめた。
現実と幻の境目がほどけ、五感の解像度が上がっていく。
――これはAIが見せている幻か?
それとも、AIが“開いて”しまった現実の奥なのか。
その疑問が浮かんだ瞬間、世界が音もなく裏返った。
木々の根が、まるで神経のように地面を貫いていた。幾何学的な螺旋を描き、曲がりくねった枝が空のすべてを覆っている。葉と光がコラージュのように重なり、緑の天井のすき間から、昼でも星が見えた。
「さあ進みましょう、“緑のトンネル・ハイウェイ”! 通過には笑顔が必要です、ええ、だいたいの魔法はそれで解けます!」
管狐が跳ねながら道を先導する。足元の土が柔らかく沈み、体温が足裏から吸い取られる。
少し歩くと、一本の木が立っていた。細く、均整のとれた枝ぶり。肌のように滑らかな樹皮。
「左手、“美人な木”でございます! 夜は繁華街、木霊たちのナイトクラブ! 踊りすぎて枝が伸びるとか伸びないとか!」
その木の周囲だけ、風がかすかに香を運んだ。湿った花の香りが舌に触れ、意識がふっと遠のく。
――現実の香りじゃない。けれど確かに、体は反応していた。
潮音台に出ると、視界が一気に開けた。
眼下に鏡のような海。空と溶け合い、水平線が消えている。風が体を抜け、皮膚に冷たい粒を残した。
「ここが木霊の国の中心、“潮音台”! 海がしゃべるんです、ほら、“しおん”って呼んでるでしょ?」
波音の中で心臓の鼓動が混ざる。胸腔の奥で何かが共鳴し、鼓膜の裏にかすかな鈴の音が残った。
再び森に入ると、枝が鴨居のように横に伸び、木々の間に家々が並んでいた。
「右手、“ナゴリーヒルズ”! 木霊上層民の住宅街です! 家賃は思い出ひとつ、更新料は涙一滴!」
狐の声に合わせて、枝の上の小さな影たちが手を振る。
その言葉に、胸の奥で何かが動いた。
思い出――。
都会の夜、赤い通知、冷めたコーヒーの味。
支払えるほどの思い出が、自分に残っているだろうか。
一瞬、視界が滲んだ。ゴーグルの内側か、自分の涙か、わからなかった。
森の奥、葉の間がぽっかりと空いている場所があった。そこから見える現世は、まるで額縁の中の絵だった。空も海も凪いでいて、音さえも静止している。
「そろそろ帰り道です、“境目ウィンドウ”からどうぞ」
管狐が前足を揃えて頭を下げた。坂を下るにつれて、空気が次第に冷たく重くなる。肺の中の空気が現実の密度を取り戻していく。
最後の角を曲がった瞬間、光がはじけ、足の裏にアスファルトの感触が戻った。
那古寺の駐車場。夕陽が瓦の上に反射し、風がゆるやかに潮の匂いを運んできた。
背中の汗が冷え、心臓の鼓動がようやく現実のテンポに戻る。
耳の奥で、あの声がかすかに笑った。
「……またいつでもどうぞ。非常識は、あなたのチケットです。」
風の中で、ふと笑ってしまった。
あんなに大変だったクライアントの無茶振りが、今ではどうでもいいことのように思えた。
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