第16回 闇夜
嘉慶八年閏二月二十日、戌の下刻頃。
「いたっ、痛たっ。永暁さま、もう少し優しく湿布をですね……」
「黙れ大馬鹿者。お前のような粗忽者には、随分と沁みる湿布に吐き出すほど苦い薬湯が丁度いい。ほら、もう直ぐ終わるから動くんじゃない」
「とほほ。あそこで一番最初に動いたのはわたしなのに」
「だから却って面倒なことになったんじゃないか、反省しろ」
京師内城は阜成門街の瀏親王府に戻った後、ぼくはあそこで乱闘に巻き込まれた末に軽傷を負ったアルサランを奥向きの居間に連れて、長椅子の上で甲斐甲斐しく手当てをしてやっていた──不器用故、彼は度々痛みに顔を顰めていたが、その程度はやむを得ない損害である。
むしろ、ぼくに心配をかけた報いとして、彼には甘受して貰うより他にあるまい。
窓の外を見ると、すっかり陽は落ち切っていて空は黒々とした夜の色に染まり、通りはしんと静まり返っている。恐らくは、宮中での事件を受けて五城兵馬司や歩軍営辺りが警戒を強めているのだろう。通り通りに作られた木戸や番所を閉鎖し、人通りを制限しているのだ。
本来この時間ならば、もう少し人の通りもあって良い筈だが、今夜は不気味な程の沈黙が胡同の一つ一つまで塩の様に染み込んで、陽気さや明るさという水分をすっかり奪い去ってしまっている。
「ふう、まあこんなところだ。だがそれにしても、お前は本当に呆れ返るほど頑丈だな。あの人数に取り押さえられてこの軽傷で済むとは」
「武器を持っていなかったのが幸いでした。刀を帯びていたら滅多斬りにされてましたよ……ところで、あの凶賊は結局どうなったんですか?」
「……生け捕りにされて、軍機処の管轄する牢獄に連行されたそうだ。詳しくは知らない」
「そうですか」
「だが、お陰で夜に進めようと思っていた仕事が全部おじゃんだ。報告書も帝に出せずじまいだし」
「まあ、そう腐ることもありませんよ。爵位承継を留保する旨の通達は貝勒殿のお屋敷に届けていますし、重要証人はまだ目を覚さないままですから。今じたばたしたところで、やはりうまくことは運びますまい」
「かも知れないがな。いまいちぼくは、こういう時にのんびり構えて待つというのがなかなか難しい性分なのだ。それはお前もよく知っているだろう」
ぼくは煙管を取り出して刻み煙草を詰めると、盆の火で軽く炙って口をつけた。あの凶賊の額に叩きつけてやった真鍮製のものである。
「なあ、アルサラン。ふと思いついたんだが、今度鋳鉄製の長煙管でも作らせようか。喧嘩用に」
「そうですね、悪くないかも知れません。間合いの狭い喧嘩では短い武器の方が重宝しますし、今回みたいに武器が持ち込めない場所では上手く使えるかも知れませんね」
「な、そうだろ。鉄扇は重くて懐に入れておけないが、喧嘩煙管なら持っていられる。是非とも買うことにしよう」
馬鹿な話、空虚な冗談であることは分かり切っている。しかし、ぼくは口を動かさずにはいられなかった。得体の知れない何者か、あの深い山の中で見えた様な存在が宮中にまで現れた。その不安を誰かと共有せずにはいられなかったのだ。
じりじりと部屋の隅に灯る蝋燭の火が揺れる。普段は節約の為に灯りは適度に減らしているが、今日ばかりはあって欲しかった。ついでに人の温もりも欲しい。彼は人間なのだと信じられる者の体温がすぐ側に欲しかった。
そんな時だった。通りに面した屋敷の大門の方から、ガラガラと言う車輪の回る音が微かに聞こえた。何だ、こんな時間に。今日は誰かの訪問を受ける約束はしていない筈だが。立ち上がってみると、同時に訪問客の取次を担当する召使が居間の外から、
「殿下。ただいま門前に、紫禁城からのお使いの方が参られております。御目通りを願いたいとのことでございますが、お通しして宜しゅうございますか」
紫禁城からの使い。ぼくとアルサランは思わず顔を見合わせた。正式な勅使であれば先触れがあるだろうし、もう少し仰々しく、居丈高に訪問して来るだろう。迎えるこちらにも相応の礼節が必要になる。
「(だが、今回は車も一両で付き人も殆どいないらしい。となると、何か非公式な使者だろうか)」
「殿下?」
「表の執務室にお通ししろ。少ししたら参る」
今夜はゆっくり休みたいところだったのに、まだ厄介ごとが終わらないのか。そう思うと陰鬱な気分まっしぐらだが、嫌じゃ嫌じゃと被りを振っても、やって来るのが仕事というもの。
子供の様に駄々をこねるのは八歳の時に卒業を余儀なくされたのだ。
「アルサラン、済まないがもう少し付き合ってくれ。今度特別手当を出してやるから」
「ありがとうございます、永暁さま」
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